2009-10-06

シンディ・シャーマンと虚構の身体


『無題のフィルム・スティル』におけるシンディの写真のイメージは、まったく突飛な女たちではない。それくらいの社会生活についてのイメージは、だれの頭のなかにもストックされているか、さもなければいろいろな方法、雑誌、書物、ヴィデオ等々のかたちで社会自身に記憶されている。シンディはこうした記憶のファイルからイメージを取り出してくる。
人間はこうした社会的イメージの記憶に接触することで、いかにも「主体」らしく出現する。そうでないと他者になる。いいかえるとこれまで人間は、主体という言葉に意味をこめてきたが、それはもっとも平均的なイメージが「主体」らしきものと措定されていたにすぎないのではないか。このフェイクな社会にあって、主体とはそのこと以上を意味するとは思えない。シンディの写真はこんなことを語っているのである。(多木浩二 『ヌード写真』)



イメージはもはや伝達の道具ではなく、いまや社会の方がみずからをイメージとして認識しはじめている。実体的世界があるかないかはここでは問題にしなくてもいい。実体として現実を問いはじめることが疑問に付されたのである。そのような方法では、われわれの生きている現実はもはや考えることはできない。彼女の写真は、われわれの社会での現実とは、このように起源を欠いた虚構でありながら現実性を獲得したものだということを明確にしようとしたのである。…彼女が現在は、おそろしくグロテスクなカラー写真を撮っているとしても不思議ではない。優しい若い女としてフェイクを演じていたとき、すでにそのようなグロテスクな世界を漠然とかいま見ていたからである。(多木浩二 『ヌード写真』)

ひとが、特に女性が、ときには暴力的なまでに自らの身体をつくり変えようとするのはなぜなのか。その視線の先にある理想的な身体は、イデオロギーがつくりだした虚構にすぎないのに。
戦争と産業のために、身体を訓練しつくり変えてきた近代。ダイエット、しわとり、整形、脱毛、カラーコンタクト、カラーリング、矯正…いま私たちは、虚構の理想的身体に1mmでも近づこうと必死で闘っている。

”もしも私が男なら、ホワイト・オウルを吸うのに”



メッセージ性において、バージニア・スリムとは対極にあるといえるタバコ広告。こちらは1965年、ベティ・フリーダンの『新しい女性の創造』後であるがNOWは組織される前年、ウーマン・リブが大きな流れをつくる前にあらわれた広告である。

”バージニア・スリムは女性のためにつくりました。生物学的に男より優れているから”




1960年代後半からアメリカで起こったウーマン・リブ運動の巨大なうねりに乗って、大成功を収めたのがタバコ会社である。

社会における女性の身体イメージにおいて、劇的な変化を必要としたウーマン・リブは、「産む性」そして「周縁性=穢れ」から解放された身体像を求めた。産む身体に必要な脂肪がついた身体、血液と交わる周期的な身体、そういった現実の身体性を削ぎ落とした”新しい”女性の理想身体。それは細く、力強く、これまで女性の身体が持っていた豊かな意味性を、ファッションに転化した身体である。
そして、そのイメージに接続することで劇的なイメージの転換を果たしたのが、タバコであり、その代表銘柄がバージニア・スリムであった。

1970年代初頭のアメリカにおいて、バージニア・スリムの広告は最も人気のある広告キャンペーンとなった。キャッチフレーズは常に、”You've Come a Long Way, Baby.”(長い道を来たじゃないの、ベイビー)。つまりウーマン・リブ、女性解放に至る長い道のりに重ね合わせて発信したのは、女性の喫煙は悪であり制裁されるべきであるという社会通念から、ついに解放される時が来たというメッセージであった。
バージニア・スリムの広告は、喫煙という行為、更に言えばバージニア・スリムを吸い続けるという行為が、女性の伝統的イメージに反抗する、最もクールで効果的なアクションであるというイメージを植えつけることに成功したのである。

上の画像は、70年代のバージニア・スリムの広告のひとつ。
最も”らしく”、どぎつい例かもしれない。下部にはお決まりの”You've Come a Long Way, Baby.”、メインのメッセージは、”We make Virginia Slims especially for women because they are biologically superior to men.” 「私達はバージニア・スリムを特別に女性のためにつくりました。なぜなら女性は男性よりも生物学的に優れているからです。」

2009-10-05

脱性の身体/体操/近代ドイツ

鷲田清一『悲鳴をあげる身体』より
ダイエット強迫からくる摂食障害、そこにはあまりに多くの観念たちが群れ、折り重なり、錯綜している。たとえば、社会が押しつけてくる「女らしさ」というイメージの拒絶、言い換えると、「成熟した女」のイメージを削ぎ落とした少女のような脱-性的な像へとじぶんを同化しようとすること。ヴィタミン、カロリー、血糖値、中性脂肪、食物繊維などへの知識と、そこに潜む「健康」幻想の倫理的テロリズム。老いること、衰えることへの不安、つまり、ヒトであれモノであれ、なにかの価値を生むことができることがその存在の価値であるという、近代社会の生産主義的な考え方…

脱性、もしくは無性の身体は、1900年代~30年代のドイツにもあらわれる。「性的欲望から自由である」ことを誇示するような、男女一対のヌード写真群である。

多木浩二『ヌード写真』より
二十世紀はじめのドイツのヌーディズムの理論家はウンゲヴィッターであったが、彼は男女ともに裸体になりながら性的な衝動からは解放されていると思い込もうとしていた。そんな衝動は堕落の証拠である――。…それは退化を超えた精神としての身体、いわば無性の身体、性的欲望という(生殖をのぞけば)おぞましいものを排除した理想的存在を目指す実践者たろうとすることであった。

二十世紀はじめのドイツのヌーディズムは、十九世紀のさまざまな科学的言説(それ自体もいかがわしいが)が、民族文化とか人種主義とかに結合したとき、歴史にあらわれてきたのである。ヌーディズムを支える「性」のイデオロギーは、民族と文化の純粋性を維持するために「性」を管理する思想に遠くではつながっていた。この性の政治学は、身体から「性」を剥奪していくイデオロギーであったのである。全体主義あるいは国家主義という二十世紀の身体経験は、一見すると体育運動の延長にあり、身体は強調するが、反対に「性的欲望」あるいは「性的身体」としての存在は抹消する方向にあった。性的衝動はどこにいくのか。ヌーディズムのダンスによる陶酔や体育好み、さらにはあのナチ独特の集団的エクスタシーがこの否認された性的欲望の充足を引き受けていたのではなかろうか。

ちなみに、というか「体育好み」を論じるにあたって非常に大事な点であるが、現在、器械体操と呼ばれるものは、ドイツのフリードリッヒ・ルートヴィヒ・ヤーンのトゥルネンが基礎になっている。それは、ドイツの国民意識を創出するという意図の中で考案された、ドイツ青年男子の体操運動であった。礼拝とトゥルネン指導者の賞賛、名跡での戦記の朗読、規律、回数で測定される出来栄え、競争と小集団内の結束、そして道徳的な脆弱であり身体に有害なものとされた自慰や女性との性交。
つまり、器械体操の誕生は近代国家、戦闘、男性性の優位と切り離すことができない。
(この時代の)女性のイメージは性的でないから、ピン・アップのように性的な誘惑を振りまくことはなかった。これは女性を尊重してのことではなく、女性の性が生殖能力だけに固定されていたからである。

レーベンスボルンに象徴されるように、ナチは「第三帝国を支える戦士を産む」という役割のために、ドイツ人(アーリア人)女性(正確には産む性)を保護する政策を実行したのである。

「見えない仕事」「見える仕事」とジェンダー

久しぶりに、キャリル・チャーチルの戯曲”Top Girls”から考えること。

マーレーンは、かつて男のみが占めていた地位をつかんだ女であり、ジョイスは、以前から女が占めていた位置にとどまる女である。ジョイスにとって、自分達を犠牲にして成り立ってきた産業社会で成功した女性など、まばゆくも感じないし羨望の対象でもない、ただ自分達を犠牲にして報酬を得ている者の首がすげ替えられただけである。
ここから、従来の女/男のカテゴリーは、産業社会においては次のように分類され得る。つまり「無報酬・低報酬で見えない仕事をする人たち」/「報酬を前提に見える仕事をする人たち」である。

例えば私の周囲に、子供が0歳の時からフルタイムで働く女性がいる。「ママゴンたちとの付き合いはまっぴら、それに忙しい」ので、子供の学校のお手伝いになる諸活動には一切参加しない、と宣言している。週末は子供をどこの家にでも遊びに行かせるが、「休みくらいゆっくりしたい」ので自宅に子供の友達は呼ばない。つまり、地域社会を結ぶ「見えない仕事」には関わらない主義である。でもこれって、いくら女性として社会で成功しても、フェミニストたちが批判してきた一昔前の父親と同じだ。

一方女性、男性問わずフルタイムで仕事をしていても、学校のボランティア活動に参加したり、役員を引き受けたりする多くの人たちもいる。その上で現実として、今の日本の都市部において、地域社会の「見えない仕事」の大部分を引き受けているのは、専業もしくはパート勤務主婦である、と断言して差し支えないだろう。つまり、家庭において「見えない仕事」に献身している人たちの多くが、報酬を前提にする人たちが「見える仕事」に出かけている間に、地域社会で無報酬の「見えない仕事」の大部分も引き受けている、という現実である。

地域社会における無報酬の「見えない仕事」の他、ワーキングプア、派遣といった言葉に関連する低報酬で不安定な「見えない仕事」もある。つまり、工場での単純作業や、清掃、内職など、産業社会における陰の仕事と言ってもいいかもしれない。(陰、というのはあくまで見えない、隠れた、という意味である。)

現実に社会や経済を成り立たせているのは、これら無数の「見えない仕事」である。にも関わらず、それらは経済的に無報酬もしくは低報酬であり、「見える仕事」にのみ価値を抱く人々にとっては、「面倒くさい」「自分とは関係ない」「成功できていない人がする」ような仕事とされることが多い。一昔前、家事は女がやるものだと言われていたように。
以前は、外に出て仕事をする男 VS 家にいさせられる女 という構図が成り立ったかもしれない。しかしこの構図の現在は、かつての男の位置に、「見える仕事」にのみ価値を抱く人たちがあり、女の位置には「見えない仕事」に従事する人たちがある。
どちらも、生物学的な男女を問わない。ジェンダーは、もはや生物学的な女/男の区別を超えた問題となっている。それは、「見える仕事」と「見えない仕事」のバランスを、社会においても個人においてもどのように取っていくか、という問題である。

付記:
地域の「見えない仕事」は経済的には無報酬だが、地域の人々や子供達の喜びによって報われているはずだ、地域に関わるかどうかは自由ではないか、というような意見は、見えない仕事をやっている当事者の言葉である限りは有効である。そうでない場合は言い訳でしかない。「女は母性があるから家事育児に喜びを感じるはず」というのと同じレベルの、都合の良い言い訳である。

「見えない仕事」の中にも「見える仕事」がある。例えばPTAなら、行事の時だけ挨拶したり、来賓と会食する会長は見える仕事であり、現実に行事のお手伝いをしたり、書類を作ったりする人たちは見えない仕事であるといえる。

一般に、「見えない仕事」をしている人は「見える仕事」をしている人から正当に評価されたり、扱われたりしていないという感じを抱くケースが多くある。

2009-09-22

「徴あり」の排除は秩序の崩壊

山口昌男『文化と両義性』から。
「徴あり」の存在は、意識下で人間と宇宙とのつながりを保っているものであり、それを排除した「徴なし」集合の秩序は暴走・崩壊する。
文化の中の人間は、自らが、そういった負の根源的象徴から隔たっていることを、人に示し、自らも納得するために、身近に負の象徴を背負った人または事物の存在を必要とする。日常生活の中で、比較的歓迎される記号とは、それは、「かたち」のみ意識されるか、または「生きられる」かしている記号であり、こうして「徴づけ」られたものを排除した残りの部分からなっていると言いうる。しかしながら、我々の知覚作用は、世界に対して、「徴なし」の記号からなる秩序で整序しえない部分にまで及ぼされる。意識の中の因果関係のバランス・シートには納まりきらない部分を意識下の部分にゆだねる。

従って、記号は二重の作用を同時に行っているということにもなる。一方では、それは、負の項を対極において際立たせ排除しながら、他方では、負の項を通じて、未だ形をとらないが、人間が世界を全体的に捉えるために欠かせない宇宙力ともいうべき部分とのつながりを保たなければならない。この宇宙力とは、時にはエロスといわれ、時にはタナトスともいわれ、更にはまたニルヴァナとも「自然」ともいわれるかも知れない。しかし我々がそれに対して命名できる範囲は常に限られたものでしかない。この「開かれた」状態が閉じられたら、それは、「秩序」そのものを支え絶えず生成させる根源的な諸力の崩壊としてのエントロピーの増大にそのままつながることになる。

しかしながら文明が保証する「秩序」とは、そういった諸力からの逃避によって動機づけられてきたこともまた確かなことである。

「罪深き」身体と暴力性

文化の記号論的基礎としての「排除の原則」または「犠牲者のでっち上げ」の論理について精神分析学者トマス・シャシュは、ゲームの理論を利用しながら西欧中世の魔女狩りを次のように説明する。
先ず中世の神、キリスト及びキリスト教神学は、悪しき神及びその眷属(悪魔・ウィッチ・妖術師)の存在という信念から切り離すことはできない対概念である。この対概念という視覚から見ると、ウィッチについて語られる性的無軌道というイメージもカソリック教会の公的反性的態度の一方の片われということになる。そこで、魔女たちを焼き、彼女らの身体の破壊を強調するのも、中世の人間の神学的世界観という前提において考えなければならない。神学的世界観では、身体は弱く罪深き存在である。このゲームの公的ルールによれば、肉体は悪で、魂は善である。肉体を痛めつけることは、魂を高貴なものにする最も確かな方法である。

殉教は、魔女の火あぶりと直線で結ばれている。
西欧中世においては性的行為の方は…著しく乱れていた。ところが法は、殆どの俗人が従うつもりのないような高い規準を設けていた。当時の人間は、あたかも自分達が法にのっとっていきているかの如く装い、自ら信じるために、このような法に従わない人間がいることを強調する必要に迫られていた。こうして「犠牲山羊(スケープゴート)」が創り出される。スケープゴートには得体の知れない力の持ち主である女性が選ばれる。

「秩序」形成と「他所者」の排除

山口昌男『文化と両義性』から。
先へ進むには、「他所者の排除」と「暴力」が結びつく契機は何であるかを明らかにする必要がある。

「秩序」形成とは、混沌という名の、連続的で形を欠いたものの中から一定の見分けのつく塊りを取り出す記号論的行為である…文化のプラクシスは、こうして、「秩序」の側からの「周縁」に対する働きかけによるコミュニケーション(交感)によって保証されている。こういった、記号のレヴェルにおける周縁の強調は「犠牲者(ヴィクチメージ)のでっち上げ」という行為を通して「秩序」と「混沌」の弁証法形成に最もダイナミックな形で働くことを明示したのは、ケネス・バークである。バークは、あらゆる反秩序的マイナス記号を付された「犠牲者」との距離において文化は「秩序」を形成する、という文化のプラクシスの根本原理を明らかにする。秘儀としての「犠牲者」の象徴的抹殺が、文化の隠された根源にあることを示した。

「女性」は潜在的「他所者」として象徴論的に排除され易い存在である。

「村の衆」と「他所者」、「身内」と「他人」といった区分は、殆どすべての社会において、人間のアイデンティティ形成の前提として存在する。この区分は、必然的に、事物の記号論的分裂を惹き起こさずにはいない。すなわち存在の名づけられたものの肯定と否定の側への分離、それに伴う形容詞の配分がそれである。

以下の文は「犠牲者(ヴィクチメージ)のでっち上げ」の文脈で書かれている。一般的にいう加害者(ナチスドイツやスターリン体制など)を正当化しているのではないことはよく読めば明らかである。
多くの分類がそうであるように、分類されることによって各項は、いっそう一つのものの異なった現れ方をする…。こうした点は、スターリン体制下における「トロツキスト」またはキリスト教国、特にナチスドイツにおけるユダヤ人を例にとって見ても確かめられることである。「加害者」が実は「被害者」であって、「被害者」と自己を同一化する共同体側が、「加害者」を作り出さなければならないという…点は、ウィッチクラフトが、社会的・心理的現象であると共に、K・バーグのいうように「原論理学(ロゴロジー)」的・宇宙論的現象であることを明確にしなければ、充分に理解されえないと思われる。

共同体における脆弱性と異人の問題

引き続き、山口昌男『文化と両義性』より。
ひとつの集団を「絶滅」「抹消」させる意図を持った暴力―ホロコースト、原爆―の根源が何なのかを探りたいと思う。それは、概念上でしかない「理想の身体」に、本来は豊かな意味の源泉である身体を封じ込めようとする権力と関係しているのではないか。

神送りの習俗の目指すところは、境界を介して村の秩序たる「文化」に対抗する「自然」的要素(サネモリ、泥棒、御霊、害虫、怨霊、風の神、等々)を視覚化することによって、混沌の要素を秩序に対置し、騒音を以って、宇宙的な亀裂を生じさせることによって、時間および空間を蘇らせるところにある。
…特にマルディ・グラの日には、こうした人形、或いは動物(鶏)などを選んで、これに前年の厄、穢れなどを背負わせて破却(イモレーション)するという習俗は広く伝えられている。こうした悪の象徴ともいうべきものを顕在化させて、これを可視的なものにするという行為には、混沌を喚び起こすことによって、負のエントロピーを吸収させて、世界を浄化させる機能が組み込まれている。
…それは、内側における境界性の喚起と、そうして喚起されたもののフィジカルな境界(村境)への転移、そうすることによって「徴あり」としての境界の強調、という儀礼的=記号論的秩序の再構築が行われるということになるのである。

「異人」は何よりも、その「脆弱性 ヴァルネラビリティー」を意味している。それは共同体の中でのお先真暗の弱さであり、挙動における弱々しさであり、「異人」をその特殊な片隅に追い込むに至らしめる集団の「異人」志向の問題でもあった。…どの家族にも、寝小便とか、怠け者とか、盗癖とか、虚言性といった汚名を陰に陽に着せられて潜在的に差別される子供がある。家族の平和とは意外にも、こういった「排除の原則」の適用の上に成り立っているということになるのである。

人は連続性の線の内部への侵入をおそれる。この侵入を防ぐ行為は、境界および防壁を築くことによって解決される。ところがこれは外来者の侵入を防ぐというより、意識の内側の「異和的」な部分を可視的なものに転化することによって外在化し、こうして、境界外に追放しようという願望に外ならない。…よく「封じ込め」という言葉が使われるが、実は「封じ込め」るためのヌミノーシスの喚起の方が重要なのであって、「異和性」の侵入、エントロピーの増大を防ぐために、「異和性」を境界として顕在しようという試みに外ならない。

2009-09-15

数量化された目的と身体

山口昌男『文化と両義性』より。
主流として流布している女性のイメージがどういうものか、同時に周縁に生まれてくる女性のイメージがどういうものか。それを知ることで、時代の深い部分で動いている流れをとらえることができるのではないか。

ガリレオ・ガリレイとデカルトに象徴される17世紀の合理的啓蒙主義が哲学を全体性から切り離したことは、西欧の知的感受性に致命的打撃を与えた…ガリレオ的客観主義が、現実を数量化し細分化し、断片化したこと…のもたらした結果は、現実を一元化し、数理的処理の対象たり得ない現実を、確実性の法則に基づいて排除したことにある。

女性の身体に目的を課してきた歴史は、ガリレイ、デカルト以前に勿論存在していた。
問題はそれが、近代において強大な力と正統性を与えられた科学技術(フッサールの観点によれば、この「数量化された」科学自体が、全体性からみれば相対的な、主観性の領野のひとつであったにもかかわらず)と結びついたことである。

社会が何かを排除する方向に動いている場合、主流の女性の身体には数量化または断片化した目的を(意識的に、無意識的に)課しているという事実が常につきまとう。その時、周縁の女性のイメージはどのように扱われているのだろうか。

2009-09-14

Natural Reader でフランス語練習

当然といえば当然なのだけれど、フランス語学習の教材は、英語学習のそれよりも圧倒的に少ない。
英語なら、今やネット上で、smart.fmでもyapprでも、skypeを使うマンツーマンの英会話レッスンでも、無料or格安で上達させる術は山ほどある。
私が留学する前は、英字新聞と米軍放送のニュースをシャドーイングするくらいしか、生の英語に触れて上達させる方法がなかったから、本当に良い時代が来たものだけど、フランス語学習者はその恩恵に与っているとは言い難い。

生のフランス語でも何でもなくて、次善の策ではあるけれど、私が今フランス語の音読のために重宝しているのが”Natural Reader”というtext-to-speech、いわゆる音声合成ソフトだ。
これは、電子辞書みたいなガチガチ不自然な音声ではなくて、ネイティブの自然な発音により近いNatural Voiceを使っている。発音の速度も20段階に変えられるし、音声ファイルに変換して携帯にダウンロードしてこられるので、とても便利。

これに、ウェブ上からフランス語のニュースや文章を引っ張ってきて、発音をチェックしながら覚えるまで読み込む、という形でフランス語を勉強している。

音声ダウンロードなし、字数制限あり(1000ワード)でも良ければ、音声合成でフランス語でも、英語でも、日本語でも読んでくれる無料サイト、imtranslatorもあります。(登場する顔がコワいけど!)

2009-08-14

女性の身体受容を解く手がかり

再び山口昌男『文化と両義性』より。
「徴つき」「排除されたもの」「周縁」としての女性の身体を考える手掛かりになる箇所を抜書き。
意味作用は、単独の範疇では成り立たず、関係項の存在を前提とする。
一つの記号の存在は、他の不在の存在を意味する。逆に不在(マイナス記号)は、記号の存在を明らかにするという構造論的仕掛けが、記号の意味作用を保証しているといえよう。
従って、特定の文化的記号のパターンの意味論上の価値は、対の項における対立要素と異なるという点にある。それらは・・・対立する質、及び分化した価値の担い手によって逆照射され、特徴づけられるのである。

対立は必然的に排除の関係をも前提とする。より広汎にとられた範疇の中では、等質の要素を含みながらも、これらの対立項は、別のレヴェルでは互いに排除し合わなければならない。
我々が、文化の中で秩序と考える状態は、こうした統合と排除の無数の組み合わせの上に成り立っている。しかし「排除」独特な方法が、文化の特定の要素を決定している。
我々が、「流行」と名づける現象にも、風流と呼ぶ行為の形式にも、粋と名づける性向にもこうした「排除」の原則が貫かれているのであって、ミシェル・ド・セルトーが逆説的にいうように、「歴史」は、或る意味では排除したものの総体であるのかも知れない。

秩序化とは、連続的で、無定形の知覚の流れをはっきりとした一組の全体的なものに変質させるような作業。(バウマン)
こうした知覚の文化的領域の境界を劃するものとしての「タブー」という概念。(エドマンド・リーチ、メアリー・ダグラス)
「タブー」を、リーチは断片化した連続体の中の「名づけられた」部分の承認を拒む行為であるという。
こして除外され切り捨てられた「混沌」の部分は、文化のプラクシスの記号論的働きかけによって周縁的な部分に姿を現さなければ、存在しないも同然であるといえる。
ただし、この部分は近くの周辺をさまよって、秩序化された意識に対して、幻想、或いは無意識を通して働きかける。タブー及び象徴が増殖するのは幽明境を明らかにしない部分においてである。

2009-08-12

『文化と両義性』に見る 本当のフェミニズムとは

今後参照する重要部分の抜粋。

山口昌男『文化と両義性』
第3章―2より
境界は多義的である故、そこには日常生活の中では位置を与えられないイメージがたち現れる可能性を持つ。二つの矛盾するものが同時に現れることができる。
そこでは、イメージ及び象徴が、言葉になる以前に絶えず立ち現れ、増殖し、新らしい統合をとげる。

「我々」の側において、秩序が支配的であり、この秩序の中で、すべては恒常的であり、起こりうることに如何に対応すればよいかもわかっている。
これに反して彼方の側において、一寸先は闇であり、すべてが不確定的である。
勿論、「此方」も「彼方」も、意識の内側の状態の投影に過ぎないことはいう迄もない。
「彼方」は意識の下層の或る状態の投影物である限り、若し「彼ら」が存在しなければ、「彼ら」を創出しなければならない。
ここで、働く論理は、「彼ら」は「我々」の対の一部であるというそれである。
「我ら」のアイデンティティが確認されるために、「彼ら」は必要なのであり、彼らはそういった意味で有用なのである。
キリスト教社会がゲットーを必要とした文化的前提はここにある。・・・多くの社会で、女性が潜在的にこういった内側の彼らの位置を占めている。

秩序を確認するためには、境界を設定することが必須の前提であり、境界のイメージを生き生きと、想像力に働きかけるように浮かび上がらせるためには、(中略)この空間に出没する魔性の者を作りあげるのが最も有効な近道である。この魔性の者は、人間のまともな形(=シンタックス)という形で表される「秩序」の骨格と、動物的部分(=語)を備えていることが望ましい。


女性の問題は、第一波フェミニズム的な思考では決して本当には解決できない。
それは、キャリル・チャーチルのTop Girlsでも、すでに明らかにされたことではあるが、(放送大学の「英語中級B」を参照」)
『文化と両義性』の第3章、第4章を読むと、女性の問題における解決は、キャリル・チャーチルが求めたよりももっと根本的な、人間の意識の構造にまで遡らなければならないことがわかる。

2009-08-04

試験終了

昨日、無事試験終了。

まずは、夫と子供たちに
協力してくれてホントにありがとう。
特に夫には、仕事で疲れているのに子供たちの面倒を見てくれて
心から感謝しています。

全く興味がなかったのに、あとはコレを取れば博物館(芸術系)の認証状が取れる!
というだけの理由で取った「著作権法概論」が、心配の種。

他の科目は勉強したくて取ったから、教科書を覚えてしまうくらい勉強するのも苦じゃない。
でも「著作権法概論」は、興味が持てないから教科書を読むのが本当に苦痛。
まいった。

でも、「哲学への誘い」でヘーゲルの『法の哲学』をほんのちょこっとだけかじったら
法律って、すごく面白い。
法律は、解釈し判断をする人の内側にあるのか、外側にあるのか、完全無菌な解釈って可能なのか、そんなことを考え始めたら、たまらなく楽しくなり

著作権法も、社会の変化と人間の欲が法律の文の間からニョキニョキ顔を出し、つっこみどころ満載っていう感じで、つっこみながら勉強してたら楽しく終えられました!

哲学を勉強すると、それはもうあらゆるシーンでつっこみどころが見えてきて、生活も勉強もより楽しくなります(笑)

そんなこんなで、ハードな試験週間でしたが楽しめました。
フランス語も3レベル目に進めそうなので、来期また頑張りま~す。

2009-07-06

フランス語は発音が大事

今学期、フランス語入門IとIIを取って本格的にフランス語の勉強を始めた。
英語は小さい時からちょこちょことやって、今はまあ、不自由しないレベルで使えるようになった。
だからこの年から全く新しい言語を学ぶとしたら、不必要な要素を切り捨てないと辛いだろう…と考えていた。
つまり、
自分のテーマを追求する上で、フランス語がある程度読解できると役に立つ
という理由でフランス語学習を始めたのであって、フランスに行きたいとか、フランス人とペラッペラにしゃべりたい☆なんて妄想しているわけではない。
よって、恐らく役に立たない(そして、試験にも出ない)発音の勉強はカットして、文法だけに集中することにした。

でもそれは大きな間違い。
特にフランス語の勉強は、発音してこそ快感で、しかも大きく上達できるということを
この間の勉強会で学んだ。

フランス語の発音は、英語に慣れていると若干困難に感じる部分もあるけれど
英語と違って、発音がとても規則的。
発音の規則を知っていれば、全く知らない単語でも
大部分はスペルを見て(例外はあるにしても)正しく発音することが可能。
全く意味がわからない長文でも、発音の規則さ・え身に付けば
フランス語ネイティブ並みに音読することはできる。
音読できれば、原文に触れる量を大きく増やすことができる。
顔の筋肉も鍛えられる(笑)←フランス語の母音で

そして、音読ができればリスニングもできるようになっていく。
耳から得られる情報は膨大だ。
本で学んだ文法を、直感的に使えるようになるだろう。

フランス語を学ぶなら、まず発音の規則を身に付ける。
そして音読の量をこなすこと。
これで半年もらえれば、中級程度のフランス語はマスターできる…なんてココで書いてみて
うん、実証してみよう。

2009-07-02

Twitterはじめる&ヨガのこと

読書メモ的にも、日記にも使えるし
ブログみたいに考えずに、勢いで短文書けるし
はじめてみたTwitter、かなり良い。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0907/01/news062.html


もうちょっと奥深い使い方はこれからだけど
つぶやきを継続することで生まれる何か、を体感したいな。

ヨガは自分ペースでやっているけれど、本格的に再開する時間は全くない。
なので、勉強ほど書くことがない。
でも、毎回のプラクティスに気づきは必ずある。
そして今はそれでいいと思ってる。
そんな自分ヨガにも、Twitterが効くかもね。

2009-06-15

黒土三男監督の面接授業

昨日、今日と、映画「蝉しぐれ」の黒土三男監督の面接授業「映画の楽しみ」を
千葉学習センターで受けてきました。

楽しかった。
私が今まで学んできた、本だけの映画論に、肉を与え血を通わせてもらいました。

1個前のブログ記事に
出席だけで単位をくれる面接授業なんて、どうなの??
という類のことを書いたけれど、
この授業は、出席だけとか、そうじゃないとかいうことを超える内容でした。

夫と子供たちも、お留守番ありがとう☆

2009-06-12

チャンスと、甘くない勉強と


放送大学に復帰して、約8ヶ月。
子供を持ちながら、また勉強ができることに
心から充実と感謝の毎日、といってもウソじゃない。
また勉強の機会を与えてくれた放送大学には、本当に感謝しています。

ただ、勉強が甘いのには悩んでしまう。
通信と通学、日本と海外を比べてどうこう言うのは間違っているだろうし
放送大学の社会的な意義とか、色々な状況の中でも勉強を続けていらっしゃる
尊敬する人たちのことも知りながら、あえて書くのだけれど

アメリカで通ってた、ごくごく普通の州立カレッジでは
同じだけの単位を取るのに、放送大学の10倍勉強しなきゃ無理だった。
英語のハンディを除いたとしても。

その大学の人文系で一番楽だと言われた、美術史入門の授業では
図鑑みたいに大きくて800ページ以上ある教科書の半分と
これまた細かい字で300ページある、美術批評の教科書の全てを
1学期3単位の授業で全て終える。
この授業は試験が2回だけだったけど(だからレポートなしで楽って言われたんだけど)
放送大学の卒業研究くらいの論文を、学期の終わりに普通に書かされる授業もある。

専攻の分野によって、多少状況は違うにしても
それが大学の勉強だと思ってた。

そんなこともあって、やっぱり放送大学の量は寂しいし
教科書持ち込みで、教科書のどこに答えが書いてあるかを探すようなレベルの試験だったり
出席や簡単な感想だけで単位がもらえる面接授業だったりすると
何かもう、本当に色々な意味でびっくりしてしまう。

でも自分自身の問題として捉えれば、勉強って本当は、与えられるものじゃない。
求めて新しいところまで踏み込んでいく、自分自身の問題。

そうは思いつつ、やっぱり悩んでもいた最中
放送大学の、とある会に参加させてもらえることになって
語学の面でも、哲学を学ぶという面でも、ちょっと違う厳しい勉強ができるようになった。
ありがたい。

色々あるけれど
子育て中でも大学の勉強の機会を与えてくれる放送大学があったからこそ、こんなことも書ける。
そして、放送大学には、素晴らしい先生がたくさんいらっしゃって
放送、面接問わず、感動的な授業がいくつもある。

勉強ができるって、本当に幸せなこと。
チャンスを与えてくれたことに、心から感謝しよう。

2009-06-10

放送大学への要望、ちょいと実現?!


ココでつらつらと書いた、大学への要望。
ブログに書いたからというわけでは、勿論ないのだけれど
同じような声があったのか、私が知らなかったのか、最近になって変化に気づいたので、こちらで追記。

*全ての面接授業で、大学に直接提出する授業評価ができるようにしてほしい。
→たぶん私が知らなかっただけかも知れない。
先日千葉のセンターで初めて面接授業を受けた際、授業時間内に評価表が配られて、匿名でセンターに直接出せるようになっていました。
でも他のセンターでは、今までなかったんだよね・・・千葉だけ?

*閉講科目は前学期にわかるようにしてほしい。(取り損ねないように)
これは来学期から実現!
すでに放送大学のHPで公開されている、2学期の授業科目案内(注!PDF)に、09年2学期で閉講する科目の一覧が載っています。

*美学芸術論、表象、美術史関係の授業を増やしてほしい。
↑の閉講科目一覧に、芸術関係の科目がいくつかあった(06年開講のもの)
ので、新しく開講される(であろう)授業に期待大。
是非新しい内容の芸術科目をお願いします☆☆☆

*英語以外の外国語でも、中上級レベルの科目をつくってほしい。
これは授業では実現していないのだけれど、ある方に大学内の語学勉強会に誘って頂き
ありがたいことに、非常に高いレベルの勉強ができるようになりました。
感謝感謝!

学校の役員、放送&面接授業、勉強会の予習、家事、仕事。一日がホントにあっという間。
天気はどんよりと鬱陶しいけれど、私はカラッと頑張ろ!

2009-05-18

マスクを買う&iKnowのフランス語学習

新型インフルエンザ、弱毒性とはいっても周りのためにも気をつけたいので
関東在住ですが、一応マスクを購入。
忙しいので「ぽちっとアスクル」で注文。

以前はもっと種類があったのだけど、今日注文できたのは「スズラン 立体ゾーンマスク」のみ。2箱購入しました。

花粉症で買った不織布マスク残りと合わせて、足りるといいのだけど。。。

今期は、フランス語事始めということで
フランス語入門ⅠとIIを両方取ってます。
強力な味方は、前にGMATの勉強で使ったことのある”iKnow”。
語学学習には本当に役に立つんだよね。全部無料だし!

フランス語を始めるので、久しぶりにiKnowのページに行ってみたら
インターナショナルな語学学習サイトのsmart.fmになって
自分で学習リストが作れるようになってました。

それで早速、放送大学の「フランス語入門Ⅰ」のかなりの部分を占めている
動詞活用(現在形)の学習リストを作成。
これを毎日やって、活用と例文がするする、とまではいかなくても、着実にアタマに入っています。

公開していますので、フランス語入門Ⅰを取っている方、フランス語初心者の方もぜひお使い下さい☆ smart.fmにアクセスして、「フランス語 動詞活用」で検索するとヒットします。
(iKnow&smart.fmは、何を使っても無料です。excellent!!)


↑この画像が目印☆

2009-04-22

琉球アンダーグラウンド & Konono No.1

放送大学の専門科目「芸術・文化・社会」4章 ”音楽がつくる身体とテクノロジーの音楽”で紹介されていた
琉球アンダーグラウンドのビデオクリップ。

Ryukyu Underground



同じく掲載されていた、Konono No.1



”コンゴ民主共和国で30年近くにわたって活動しているKonono No.1は、伝統的な楽器であるリケンベ(いわゆる「親指ピアノ」)をエレキ化し、自動車部品の流用を含むさまざまな打楽器とともに、これまた自動車部品などから自作したマイクロフォンを用いて、反復性の強い「ダンス・ミュージック」を演奏している。”
(「芸術・文化・社会」第4章より)

「悲鳴をあげる身体」

「悲鳴をあげる身体」
女性の身体がどのように所有されているか、が
映画や絵画の中でどう描かれているか、に興味があったところ
偶然ある方に教えて頂いた本。

よーく見たら、放送大学の「芸術・文化・社会」で2章と3章をご担当の
鷲田清一先生が書かれた本でした。
ひとはごくわずかな「感情の浮沈」によってその存在が深く惑わされてしまうものなのであって、他人との交わり、あるいは信頼にもとづいた関係というものを失ったときに、ひとは食欲そのものをもひどく狂わされてしまう。
・・・「精神病院での食事時のもの悲しい光景は、ひごろはのろのろと動いている患者たちの恐ろしい速度の『早食い』である。また・・・食物に毒が盛られていると確信している被害妄想は、人間学的には信頼というものの喪失のすさまじい表現に他ならない」、と。
人間としての近さや親しみの感情を失った時、食もまた崩れるのである。

身体をめぐるさまざまの記事が新聞に載らない日はない。
人びとはなぜこうも身体を気にするようになったのかと、あらためて考えさせられる、いろいろな契機が渦巻いている。
が、はっきりしているのは、身体がその独自のゆるみやゆらぎ、あるいは独自のコモンセンスを失って、がちがちになっているということ、言ってみれば加減とか融通がきかなくなっているということである。
身体はいま、健康とか清潔、衛生、強壮、快感といった観念に憑かれてがちがちになっている。
パニック・ボディ。そう、身体がいまいろんなところで悲鳴をあげている。

2009-04-16

キャリル・チャーチル"Top Girls"のフェミニズム(3)

女優ルー・ウェイクフィールドのコメント(Session 4)
Top Girls is a feminist play in that it's self-criticism of the women's movement...
Some women are succeeding and getting on very well, but it's no good if feminism means that women get on and tread on men's heads, or other women's heads, as hard as men ever tread on theirs.
If women do get the top jobs, there's also a job to be done in reassessing that job in feminist or humanitarian terms.

フェミニズムは、女性<わたし>の成功=他人(男であれ、女であれ)を踏みつける、ことを意図してはならない。
女性がトップの仕事を得たら、その仕事をフェミニズム/人道主義のコトバで再評価する作業もある。

他人の犠牲の上に女性<わたし>の名声を築くような価値観と決別した、人道主義に根ざした新しい価値観ともいうべきフェミニズムへ。そしてそのタームで、ある「社会的成功」の価値を再判断することの重要性が語られている。

Elaine Astonの批評(Session4)
The kind of questions that Churchill asks through her theater reflect her feminist and socialist viewpoints, but allied to her interrogative, political mode of writing is her experimental approach to dramatic and theatrical form. Churchill's theater is not jest a question of politics, but a politics of style.

チャーチルの劇作家としての立場は、ある意味、マーリーンの重役昇進―社会的成功―と重なっている。
ルー・ウェイクフィールドが言う、「女性の社会的成功を、フェミニズム/人道主義のコトバで捉えなおす」作業は、チャーチルにおいては「女性劇作家としての社会的成功を、フェミニズム、社会主義の立場からの戯曲制作、そして戯曲の”型”への実験的アプローチによって、世に問い続ける」作業といえるかもしれない。

身体解放の芸術、感情解放の芸術

The art of body liberation.

The art of releasing inner emotions.

身体解放の芸術、
感情解放の芸術。
この2つが、女性の生き方に深みを与えてくれる。
私にとってはヨガと映画。

2009-04-13

ヘッドスタンド、恐れの克服。

ヘッドスタンドは、私の中にあって私が意識していない”恐れ”を自覚させてくれる。

壁なしのヘッドスタンドができるようになって、ほぼ半年近く
それでも私は壁のそばから離れることができない。

壁の近くなら、何も恐れることなく、壁なしで何分でもヘッドスタンドを続けられる。
いざという時にも、壁が支えてくれるという安心感が恐怖感を包み隠してくれる。

でも部屋の真ん中でやろうとすると、数十秒しか続かない。
ちょっとしたバランスの崩れに動揺して、すぐに足を下ろしてしまう。
いざという時に、自分が自分を支える覚悟か、対処する自信がない。

私の内部にある恐怖心をまっすぐにみつめて
ヨガのプラクティスを続けることで
ゆっくりでも着実に、この”恐れ”を克服していきたいと思う。

それが生活にも生きるはず。

2009-04-02

キャリル・チャーチル"Top Girls"のフェミニズム(2)

Phyllis R. Randall, "Beginnings: Churchill's Early Radio and Stage Plays,"からの批評(Session 4)
Marlene succeeds in a man's world, the capitalistic world, but at the tremendous personal sacrifice of her humanity.
Joyce, who cleans houses for a living for herself and Angie, displays admirable personal strength and character, but at a great cost in economic security.

Angie's howl at the end signals not only her own fate as one who has neither character nor aggressive ability but also the fate of feminists, who see limitations no matter which road is taken.

人間性を犠牲にして男社会で成功するか、経済的安定を犠牲にしても人間として筋を通すか。最後のアンジーのうめきは、どちらを選んでも限界があることを知っていたフェミニストたちのうめきでもある。

Janet Brown, "Caryl Churchill's Top Girls Catches the Next Wave"より(Session 6)
...a feminist critique of Marlene, a contemporary woman executive.
Marlene has accepted the limited reform that makes her own success possible without recognizing the larger oppressions that continue even in her own family.

Thus the play is expressive of the next wave of feminism, a feminism that focuses not on the individual woman's struggle for autonomy, but on the need for a radical transformation of society.

The dream of the past reminds us not only of the historical weight of women's oppression but also of the futility of individual solutions.
The child's dream of the future reminds us of what is at stake in the feminist struggle for societal transformation.

女性重役への昇進を勝ち取ったマーレーンは、女性個人の成功を可能にした社会変革の成果を享受していた。しかし、家族であるジョイスやアンジーを囲む、更に大きな抑圧には気付きもしなかった。
マーレーンが謳歌する社会変革の成果は、実は限られたものであった。

フェミニズムの次の波―第二波―は、マーレーンの成功に表されるような個々の女性の自立に関する葛藤ではなく、個々の女性が葛藤してもどうしようもないような問題における、根本的な社会変革の必要性に重点を置いている。

何かのためのヨガ、から。

新学期が始まった。
といっても、子供たちの春休みは続いているので
勉強モードになるのはまだ難しい。
お風呂の中で教科書読み(笑)

このところ、ヨガと自分の関係がすごくうまくいっている。

誰かに教えるためのヨガ
資格のためのヨガ
カラダをキープするためのヨガ
<何かの役に立つため>のヨガ

3ヶ月間、ヨガから離れたことで
そういう執着が全部消えた。

朝起きる、
ただマットに乗る。
身体があたたまるまでスーリヤ・ナマスカーラ。
基本的にはアシュタンガの流れに沿って
息があがるまで。

頑張らないヨガ
無理をしないヨガ
それもウソっぽいなーと
最近思う。

自分がすこしでも良い自分になっているか
昨日よりも素敵な自分になっているか
それを確認する時間
それが今の私のヨガ。

2009-03-23

槍かけだんごとか、足立学習センターの楽しみ

用事があって、先日は足立学習センターへ。
北千住駅→学習センターに向かう、宿場町通りという商店街には
安くて美味しいお店が色々とあります。



科目履修生の時代に、美味しくてよく買ってたお団子やさん
かどやの槍かけだんご
ここは、結構テレビなんかでも紹介されている、北千住ではかなりの有名店。

数年前は80円だったのが、10円値上げして1本90円。団子にしては安くはないかな。
でも相変わらずお客さんの絶えない様子。
この間は超特急の行き帰りだったので、残念ながら買えなかったのだけれど
絶品なやわらかさは健在かな。

科目履修生時代にはなかったのが
洋菓子「ドンレミー」のアウトレット。
大手スーパーなんかでよく見かける、ドンレミーのスウィーツがアウトレット価格で
単位認定試験の帰り、子供たちへのおみやげに重宝。

それから、おいしいお豆腐&豆腐関連食がお買い得な「三代目 茂蔵」。
オーソドックスな豆腐商品から、生こうや豆腐などの変わり種も美味しくて安いので
学習センター帰りの、夕食プラス1品に大活躍。

センター向いの通りには、お弁当や肉おかずが激安なお店。
一本入ると行列しているお店も。
シャッターに描かれた絵とか、江戸期の建築とか

足立学習センター周り、かなり楽しめるところです☆

2009-03-11

埼玉学習センターへ

昨日は埼玉学習センターへ。
2月の集中授業の時に借りていた本を返すのと、スケジュール的に、多分1ヶ月以上センターに行けなくなってしまうので、どうしても最後まで見ておきたかった「英語中級B」を視聴するため。

ここは駅から激近だし、1階にコンビニが入っているので、お昼の調達が楽でgood◎

窓側に席をもらって、大きな窓から青い空いっぱい。そして街と新幹線が行き来する様子を見おろしながら、勉強できて気持ちがよかった~。

前回、本部の図書館で半分は視聴していたので、朝から夕方まで通して、なんとか最終回まで見終わりました。子供のお迎え時間ギリギリ!

これで、教科書が来たら自分で深めていけるかな。

ところで、英語中級Bも担当して下さっている大石和欣先生が退官されるそう。お若くて優秀なので(しかも俳優サンかと思うような端正なお顔立ちで)、きっと他の大学に行かれるのでしょうね。
以前からHPなどを拝見して、面接授業で教わりたいと思っていた先生なので、とても残念。
3月終わり頃に公開講座を持たれるようだけど、子供が春休みだし行けないかなー。
今後のますますのご活躍を、心よりお祈りします。

2009-03-06

キャリル・チャーチル"Top Girls"のフェミニズム(1)

Roger CornishとVillet Ketelsによる批評から (Session1)
Churchill sees her life as a writer inseparable from her life as a woman.
"What politicized me," she explains, "was being discontent with my own way of life – of being a barrister's wife and just being at home with small children."
The mother of three sons, she came to feel that "women's true liberation on the domestic front must involve the education of men to share fully in the raising of children even at the expense of their own careers."

何らかの目的を持って学び、社会で表現すべきものを培ってきた女性が、夫によって生活が保証された家庭生活に入って一定の年月を過ごしたならば、同様に感じると思われる内容を、チャーチルはここで語っている。

多くの家庭において、主婦の仕事には終わりがない。
掃除や料理に手を掛け始めたらきりがない、とよく言われる。しかしそれは多分に性格の問題もある。
最も大きな要因は、多くの夫や子供たちが、家庭の仕事をしてくれる主婦がいることを大前提にして、様々なコトを計画し実行し続けるという事実である。

例えば、夫が本屋に寄る。趣味の雑誌を物色し、仕事に役に立ちそうな本を探して、会社帰りに1時間くらい本屋をうろつくことなんて、別に妻に断りを入れるほどのことではないだろう。
ここで夫は、今現在、家には家庭の仕事を行う主婦が存在して、自分は子供たちの物理的な世話や食事の調達を心配する必要がないことを、無意識の中で大前提として行動している。

ところで、もしそうでなかったら・・・?子供の迎え!保育園の後に学童に回って、駅前のスーパーで買い物して・・・冷蔵庫には何があったっけ?!明日の体操着を洗濯しなきゃ・・・
家庭にいる主婦の存在を大前提に行動している夫たちが、ある日突然この状況に放り込まれたら、間違いなくパニックだろう。

ところで、家庭の仕事をしてくれる人が(自分以外に)いないことを知っているたくさんの子持ち共働き主婦は、毎日この状況をこなし続けてる。
愚痴を言ったり、時には楽しんだり、あきらめたりしながら。


妻(母)の家庭内での仕事は、家族が主婦としての役割(専業も兼業もなく)を常時かつ無意識的に求め続けることによって、常に生まれ続け、終わりがない。

主婦の役割を全面的に求められている女性が、自分自身の創造性を開発し、真に豊かな意味で社会に貢献していくためには、education of men to share fully in the raising of children even at the expense of their own careers、更に子供を含めてひとりひとりが家庭の仕事に自覚的になり、話し合い分担することは必須だと思う。

その結果として、家族内での分担が進むかもしれないし、やはり家庭にいる妻(母)が大部分の物理的な家事を行うことになるかもしれない。子供の有無や年齢、お互いの仕事の量などによって、その形は異なって当然だろう。
しかし、主婦という役割が固定的ではないこと、無条件にその役割を求められ続けることの重みに、ひとりひとりが自覚的になることによって、成長する存在、また社会に貢献する存在として自立しつつ結ばれた、創造的な家族を築いていくことができるようになる、と考える。

妻(母)自身、自らの家庭内での立ち位置に自覚的になり、当然のこととして無意識的に要請される主婦としての役割に、自ら主導権をもって時間的、項目的にけじめをつけ、明日のお弁当やお迎え時間の心配と共に、5年先、10年先の自らの姿を確認していくことが大切だと考える。

2009-03-05

科目登録OK(ほっ)

お待ちしていました、科目登録通知が到着。
今回から、面接授業の優先制度がなくなり、全科目抽選とのことで
申請した科目が登録されるか、I've been so...



結果
面接授業5科目とも全て登録OKでした。
思い通りに取れないと卒業時期に関わってくるので、とりあえずほっとしたー。

放送授業と合わせて19単位、頑張ろ☆

2009-02-24

「英語中級B」 芸術/ジェンダー論系にもオススメ

久しぶりに放送大学本部の図書館へ。英語中級Bの1~6回目を視聴。

英語は留学時代に鍛えたので、そっちよりは
キャリル・チャーチルの戯曲"Top Girls"が教材、というのに魅かれ、演劇を学ぶひとつの機会として来学期の科目登録をしました。

視聴した感想。
英語の授業ではあるけど、同時にキャリル・チャーチルのフェミニズム思想や戯曲の背景、批評、戯曲翻訳者のインタビューなど、盛りだくさん。
全体としてTop Girlsの鑑賞と、社会的背景、演劇論、フェミニズム批評が中心で、私は大満足。
芸術、ジェンダー論に興味のある方にオススメです。

もちろん、実用英語のコーナーも少しですが、あります。

第一幕の主要人物のひとりは、鎌倉時代の後深草院二条。
「とはずがたり」の著者です。
キャリル・チャーチルは、「とはずがたり」を相当読み込んで”Nijo”を設定したようで
恥ずかしながら読んだことのない私には、新鮮な驚きがいくつもありました。
ただ、実際の舞台の初演では、二条の格好に相当の時代・文化的矛盾があったそう。
そのあたりのことも、しっかり紹介されていて
日本文化の受容という点でも、興味のある方は面白いと思います。

今日視聴した中では、キャリル・チャーチルが演劇の伝統的構成としての”maleness”について自覚的なこと、そして描いた内容は勿論のこと、彼女の実験的なstyle/formが、そのフェミニズム観を反映したものだという点が重要だと思いました。
The kind of questions that Churchill asks through her theater reflect her feminist and socialist viewpoints, but allied to her interrogative, political mode of writing is her experimental approach to dramatic and theatrical form.
Churcill's theater is not just a question of politics, but a politics of style.

2009-02-23

「つみきのいえ」 congratulations on winning the Oscar!

「つみきのいえ」オスカー受賞おめでとうございます。
つみきのいえ、La Maison en Petits Cubesは、12分の中に愛が持つ希望の力が凝縮された、温かな素晴らしい作品です。

海面がどんどん上昇するために、家を上に上に建て増していくひとり暮らしの老人。
あるきっかけで、老人は水中にもぐる。
これまで積み立ててきた階をひとつひとつ、下へとめぐる中で
それぞれの階で育まれた、自らの家族の歴史と愛を追体験していく。。。

設定はユニークでも、ストーリーの流れ方は取り立てて特別なものではなく
むしろ、誰もが次の流れを読めるくらいの、普通の運びです。
でもこの映画は、家族の、そして家族への愛が、ただ追憶としてではなく
人の生に希望を送り続ける力をもっていることを、温かな映像で静かに表明しています。

私は、短編映画で泣いたのはこの作品が初めてです。
濃密な12分を、ぜひ多くの人に味わって頂きたいと願う作品です。

2009-02-22

放送大学への要望いろいろ

大学での勉強は、素晴らしい先生にめぐり合えたこともあって満足、順調に進んでいますが
更にこうしてくれたら嬉しい!ことを色々。かなり個人的な要望も含めて。

【面接授業】
*平日の面接授業を増やしてほしい。
*やっぱり完全抽選じゃなく、卒業を目指す(面)20単位未満学生に優先的に取らせてほしい。
*全ての面接授業で、大学に直接提出する授業評価ができるようにしてほしい。

【放送授業】
*テレビ授業のインターネット配信を、全科目実現してほしい。
美学芸術論、表象、美術史関係の授業を増やしてほしい。
*映画史、映画論の授業をつくってほしい。
*歴史/哲学/芸術系の総合科目をつくってほしい。(これがないと、総合科目をとらなきゃいけない新コースへの移行は考えられない。。。)
*英語以外の外国語でも、中上級レベルの科目をつくってほしい。
閉講科目は前学期にわかるようにしてほしい。(取り損ねないように)

【学習指導など】
単位互換協定を結んでいる大学で、科目履修&放送大学での単位認定ができるようにしてほしい。
(今は東日本では千葉大だけ)
*質問の答えは必ず返して下さい。(これは大学というより先生に、だけど)

【その他】
*仏検の合格級で単位認定してほしい。(他大でやっているところも)
*ヨガアライアンス認定のティーチャートレーニング(200h)修了で、体育実技の単位を認めてほしい(笑)


こんな感じ?
また思いついたら書こうっと。

シモーヌ・ヴェイユと美学

哲学者アランの教え子であるシモーヌ・ヴェイユについて、初めて聞いたのは確か高校生の時。
優秀な成績で哲学を修めながら、労働者の苛酷な境遇を共有するために女工となり
後にド・ゴールの自由フランスにレジスタンスとして参加、34歳でその生涯を閉じた。

シモーヌ・ヴェイユが、リセ教員の職を休んで自ら女工という境遇に身を置いたことは、例えば映画「 微熱 愛と革命の日々」で、ニーナが医者を辞めて女工になったのとは全く違う。

ニーナは自分の信奉する主義のために、労働者を教化しようと工場に身を置いた。彼女にとって、労働者は”あわれみ”、”指導すべき”存在。
それは独りよがりの、押し売りの愛であり、報いられない時には絶望や怒りを伴うのでは。

しかしシモーヌ・ヴェイユは、苦しむ人々と共に苦しみ、同等な存在として人々の不幸を真に共有することを、魂において望んでいたように思える。
シモーヌ・ヴェイユには、虐げられ、使い捨てにされる名もない人々への、透徹した愛の視線がある。

このような、全身全霊で同苦する存在としてのシモーヌ・ヴェイユのことは知っていたけれど
美学との関連は知らなかった。

大学の図書室で借りてきた「西洋美学のエッセンス 西洋美学理論の歴史と展開」
(青山先生がディドロを担当されているので、借りたのだけど)
このP403~P410、「現代西洋美学の動向」に、シモーヌ・ヴェイユの美学が取り上げられている。
これからじっくり読んで勉強する予定。

2009-02-19

久々、ヨガで身体に向き合う

11月上旬に行ったヨガのイベント、横浜でのサンサルテーション×108回以来
11月、12月は風邪スパイラルと勉強
1月はお正月に単位認定試験
2月は昨日までびっしり面接授業
で、自分でもびっくり、気が付いたら3ヶ月もヨガから離れてた。

途中、肩こりが辛くなって、アシュタンガのハーフ途中くらいまでやってみたけれど
体力が続かない、おまけに久々にやるものだから逆に筋肉痛がひどくなってしまって
アタマの方の充実とは反対に、身体の方は肩こりからむくみまで、ボロボロ。

やっと今日、仕事を終えてから、ゆったりとヨガに向き合える余裕ができた。
3ヶ月間、離れてみて発見したこと。

○バランス感覚は、そうそうすぐにダメになるものじゃない。
ヘッドスタンドでも、木のポーズでも、一度修得したバランスは3ヶ月では失われない。
(自転車と同じ?)

○肩関節の柔軟性も、それほど損なわれてない感じ。
バックベンドも、すぐに元通りできそう。

○でも股関節の柔軟性は、サボった分だけ失われてる。
腰は冷えるし、むくむのも当然かな。。。

ということで、ゆっくり股関節のリハビリっぽいヨガを中心に
最後はヘッドスタンドで、じっくり呼吸を味わいました。

やっぱり気持ちいいな、ヨガ。
いつもこうして、身体を見つめる余裕を持って過ごしていかなきゃ
と、改めて気が付いた一日。

2009-02-18

面接授業終了!子供を預けるのは、、

面接授業が全て終了!

6年前は科目履修生だったので、全科履修生になった今回が初めての面接授業。
10時から18時まで授業、というのが、どういうことかわかっておらず(笑)
4単位びっしりは結構キツかった!
でも、終わってしまった今、明日からこの生活がないかと思うとちょっと寂しい気も。
それほど充実していた内容でした。

来年からは、この集中型がなくなってしまうそうで。。。残念。

ところで面接授業の間、下の子のお迎え時間にはどうしても間に合わないので
初めてシッターさん依頼を検討しました。

具体的には
・個人ベビーシッターさん
・民間会社のシッターサービス
・ファミリーサポートセンター

で、費用の面からも、公的サービスで安心という意味でも
まず、ファミリーサポートセンターに依頼。

しかし、イレギュラーなスケジュールの上、すでにサポートを行っている方が大半とのことで
なかなか見つからず。

同時並行で個人のシッターさんも募集をかけました。
最終手段として、高いけど民間のシッターサービスにお願いすることも覚悟。

個人のシッターさんは、すぐにご縁があったのですが
子供の具合が悪くなって、面接授業に参加できるか(=シッターをお願いするか)微妙になり
スケジュールを空けておいて頂くのも申し訳ないので、やむなくお断り。

結果的には、子供も良くなり、ファミリーサポートも引き受けてくださる方がみつかり
ギリギリのところで、面接授業に参加することができました。

2月という、子供がインフルエンザや感染症にかかりやすい時期だったこと
にも関わらず、面接授業をスケジュール目いっぱい取ってしまったこと
ママ学生としては、反省。
そして、覚悟はしていましたが
途中、幼稚園が諸事情で半日保育→ほぼ一日、ファミサポさんにお預け
だった日が出て、最終的に面接授業の学費とほぼ同じ金額が、子供を預けるのにかかりました。

それでも、もし民間のサービスにお願いしていたら、更に2倍以上かかるわけで
何より温かく預かって頂けるところがあったのは、本当にありがたいこと。
子供は、同年代のお子さんがいるそのお宅でとても楽しい時間を過ごしたようで
ファミリーサポートセンターのありがたさが身にしみました。

義母や主人のサポートもあって、何とか皆勤できたことに感謝、感謝です。

さ、明日からは仕事に復帰!学費稼がなきゃ(笑)

2009-02-16

千葉大で面接単位が取れるらしい

面接授業の合間に、千葉大特別聴講生募集の掲示を見つけた。
これは放送大学の学生が、放送大学籍のまま千葉大で科目を取れるシステム、だそう。
千葉大で取った単位は、放送大学の面接授業の単位として認めてくれるとのこと。

千葉大、っていったら、若桑みどり先生の名前が浮かぶ。
放送大学でもイメージや記号論の授業をされて、千葉大のあと、同じ千葉県内の女子大で教えてらした。(「お姫様とジェンダー」ね!)
2007年に突然、お亡くなりになって。もっと若桑先生の著作を読みたかったし、授業も受けてみたかったのに、本当に残念。

で、本題の千葉大特別聴講生の告知を見たときは、若桑先生のイメージもあって、千葉大で勉強できるなら申し込みたい!と思い、早速窓口で書類をもらいました。

ただ、書類をよく見ると、残念ながら取れる授業(=放送大学で単位を認める科目)はかなり限られている模様。特に私が関係ある文学部は、ドイツ語やラテン語中心の8科目だけでした。
後で本部に確認したところ、放送大学で単位互換しなくて良いなら、千葉大がOKしてくれれば他の授業も取れるそうなのだけど。
どちらにしても、21年前期の締め切りは2月18日、と目前だし、毎学期募集してるとのことなので、今回は見送ることにしました。

理学部と教育学部の単位認定科目は、そこそこ充実しているよう。興味のある方は学習センターで書類をもらってみては。

ギモンだったのは、放送大学はかなり多くの大学と単位互換協定を結んでいるのに、他大生→放送大学の受け入れはしていても、放送大学生→他大の受け入れは、この千葉大と大阪大学以外にないこと。しかも、科目は相当限られた形。
それに、この特別聴講生の募集も、学習センターに小さく掲示してあるだけで、積極的な告知をしていないのが不思議。

放送大学生が、ココにない科目を他大学で勉強して単位が取れるようなプログラムを、千葉大だけじゃなくて色々と頑張って充実させてほしいなと思います。

2009-02-15

すごーい無料フランス語講座(merci!)

来期はフランス語入門I&IIを両方取ります。
新たに学ぶ外国語を、一気に2つ取るのは無謀かなと思ったけれど
仕事上、ぶつ切りの単語だけでも触れてはいたし
何より自分の希望の卒業研究をするとしたら、仏語原文を読む場面が出てきそう。

今期で初歩的な文法をやっつけておいて、来期にフランス語基礎で中級文法、
その間に単語力をつけ、卒業研究では原文を読みこなせるくらいに。。。って甘いかな?

教科書はまだまだ届かないので、とりあえず予習をしたくても自宅ではできません。
ネットで色々探したところ、東京外国語大学のすばらしい!!無料プログラムがありました。

東外大言語モジュール
http://www.coelang.tufs.ac.jp/modules/index.html

フランス語は、発音/会話/文法/語彙モジュールに分かれていて
文法は、44レッスンで初級文法がクリアできるように作られています。
週2回×22週がモデルだけど、毎日1レッスン×44日とか、自分のペースで進めることが可能。

文章の発音は、音声ですぐに(別ファイルを開いたりすることなく)確認できるようになっているし
語彙モジュールでは、単語の音声は勿論、その単語を使った会話or文法モジュールの文章が、これまた音声付で確認できるようになっており、無料で申し訳ないくらいな配慮あるプログラムです。

英語や中国語など、メジャーな言語は勿論、モンゴル語やカンボジア語などまで学習OK。
東京外大は、社会貢献の一環として、このモジュールを公開しているそう。素晴らしい!感謝です。

2009-02-12

「日常生活の医療英語」

今日の面接授業は、「日常生活の医療英語」

普段の英語には不自由しないけれど、いざ海外で具合が悪くなった時・・・
自分や家族を守るためにも、医療英語を確認しておいた方がよいかな、と思って取ってみました。

米川聖美先生は明るく声のステキな方で、看護学生に医療英語を教えていらっしゃるそう。
発音は?なトコもあるけど、面接授業に熱意を持って取り組まれているのが伝わってきて嬉しい。
看護婦さんなど、医療現場の方も何人かいらっしゃったみたい。

なんとなくGyaoでずーっと見ているドラマ、「ER」で聞きなれたabdorminal painとか、appendicitisなど、医療英語が文字で理解できて◎。

絶対に眠くなるので、面接授業の間、ランチは食べないことにしています。
今日はお昼休みに、初めて埼玉センターの図書室に行きました。
10階の窓からの光は気持ちよく、晴れて眺めがよく、がらーんとした空間が心地よくgood!

2009-02-10

「近現代の戦争と芸術・文化・社会」

映画専門大学院大学 加藤厚子先生の「近現代の戦争と芸術・文化・社会」
近代戦争の展開と、映画の発展がどのように関わっていたか?を学ぶ授業です。

映画とは何か?から始まり、戦争を遂行するための「国民」意識の創出や、自国の産業や文化の先進性、軍事行動の正当性を主張するために映画が利用されたこと、しかし必ずしも軍国一辺倒の検閲ではなかったこと、など、映像を交えながらの講義でした。

実際に、内務省の検閲をパスして上映された娯楽映画を観ましたが、戦争に突入していた時期とは思えないようなユーモアのある映画でした。今観ても全然古臭くなくて。
先生もおっしゃってましたが、検閲=軍国主義の映画一色、では必ずしもなかった点が意外。

でも勿論、戦争を正当化し、国民を駆り立てる思想がしっかり盛り込まれた映画が主流です。

「蘇州夜曲(支那の夜)」
李香蘭&長谷川一夫
<理知的で誠実な男性>―<愚かで感情的、男性に導かれて更正する女性>のイメージを利用して
日本―中国の支配―被支配を正当化する手法が使われている。

「新しい土」
アーノルド・ファンク監督、16歳の原節子が出演。
同盟国である日独お互いのイメージを高めるための映画。
最後のシーンで、新天地満洲への移民を理想化して描く。

などなど。
(*この2つは、youtubeで部分的に見られました)

こう紹介すると誤解がありそうですが、プロパガンダに使われた=芸術的価値がない、ということではないです。勿論、その背景にある戦争やジェンダー観は全く誤ったものですが。

芸術は、それが生み出された時代背景、社会状況から離れて存立することはできないのであって(放送授業の「芸術の理論と歴史」をぜひ!)、映画もまた誕生から、社会状況、特に近代戦争と結びついて作品が生み出されてきた、ということを学ぶのが、この面接授業の目的だと思います。

授業はとても充実していて、先生のちょこっとしたユーモアがあったりして次回も楽しみなのですが
文京のモニターは笑っちゃうくらい小さい。映画の授業なんだけどなー。

2009-02-03

視聴覚室が充実しているのは

放送教材を見に行くなら、やっぱり本部の図書館。

足立はこじんまりしていてきれいだし、図書館のスタッフの方も皆さん気持ちの良い方ばかりで好きなのですが、本部図書館にあってココにないものがあるのです。

それは、1.4倍速で見られるDVDデッキ。

見逃した放送授業(そもそも、時間帯的に絶対見られないのもあり)を見に行くのですが
限られた曜日に来て、子供の帰宅時間に合わせなければいけない身としては、その数時間でいくつ見られるかが勝負!!
それこそ、お昼ご飯の時間も惜しんで見る状況で、1.4倍速は本当~にありがたいのです。

本当は、全科目ネットで配信してくれたら一番いいんだけど。
今学期取った中で、唯一ネット配信のあったラジオ科目、料理しながら何度も聞けたし、いつの間にか家族も楽しんでました。面白い勉強してるね、って。

ON AIRでは、著作権の問題が。。って書いてあったような気がするけれど。早くクリアして実現できるといいですよね。

2009-02-01

試験終了!芸術系科目レヴュー

約6年ぶりの単位認定試験、全科目が無事終了しました。
(オットよ、ありがとう)

放送大学に復帰するにあたって、最初は何か手がかりがあった方が履修しやすいだろう、と思い、とりあえずエキスパートの「芸術系博物館プラン」取得を目指すことにしました。

科目履修生の時にとった科目が結構対象になっていたので、博物館系の3科目と、著作権法概論、あと選択をちょっと取ればOK。。。なはずが
何と今期は「博物館概論」と「著作権法概論」の試験日時が同じ!
結局、著作権法概論は来期に回すことにしました。(必須科目の試験はかぶらせないで~)

こんな感じで履修した今期でしたが、必須科目のうち
佐々木利和先生の「博物館概論」「博物館資料論」
は本当に素晴らしい放送授業でした。

「博物館概論」は、前半を博物館のモノの取扱いに特化しているので、博物館や美術品に興味のない人は面白くないかもしれないけれど、仕事に関連している私には、役に立つという意味でもやりがいのある科目。
でもそれ以上に素晴らしかったのは、北海道と沖縄の地域博物館を紹介していく第11章以降。特に与那国民俗博物館では、博物館の原点を見せていただきました。

「博物館資料論」は、この概論の11章以降の流れを、より濃密にした感じで展開されます。
佐々木先生の博物館とモノに対する情熱、そこで働く方からお話を聞きだす時の温かさ(市役所から来ている文化担当?のおっちゃんや、大学院出たての助教さんにまで、○○先生、と呼びかけられているのにびっくり)+何気ないつっこみ、に、毎回感動。

選択では、青山昌文先生の「芸術の理論と歴史」
本当に面白いです。芸術に興味のない人でも、映像資料がふんだんで先生の語りが楽しく、芸術の見方が変わると思います。
ディドロ美学をベースにした授業は、他大学にもないのでは?

本村凌二先生の「古代地中海世界の歴史」
通信課題も、試験も記述で、とてもやりがいがありました。
子供が大好きな集英社の歴史漫画「世界の歴史」で、これまた特に大好きな第二巻(古代ギリシアとローマ)の監修者が本村先生、なことを発見した時はびっくり。親子でお世話になりました(笑)
今期を最後に閉講。来期からは、一般科目の「地中海世界の歴史」になります。(試験も簡単になる・・・かな?)

「アーツ・マネジメント」など、他3科目も楽しかったです。

試験が終わったので、これからシラバスとにらめっこしつつ、来期の科目を考えまーす。