2009-08-14

女性の身体受容を解く手がかり

再び山口昌男『文化と両義性』より。
「徴つき」「排除されたもの」「周縁」としての女性の身体を考える手掛かりになる箇所を抜書き。
意味作用は、単独の範疇では成り立たず、関係項の存在を前提とする。
一つの記号の存在は、他の不在の存在を意味する。逆に不在(マイナス記号)は、記号の存在を明らかにするという構造論的仕掛けが、記号の意味作用を保証しているといえよう。
従って、特定の文化的記号のパターンの意味論上の価値は、対の項における対立要素と異なるという点にある。それらは・・・対立する質、及び分化した価値の担い手によって逆照射され、特徴づけられるのである。

対立は必然的に排除の関係をも前提とする。より広汎にとられた範疇の中では、等質の要素を含みながらも、これらの対立項は、別のレヴェルでは互いに排除し合わなければならない。
我々が、文化の中で秩序と考える状態は、こうした統合と排除の無数の組み合わせの上に成り立っている。しかし「排除」独特な方法が、文化の特定の要素を決定している。
我々が、「流行」と名づける現象にも、風流と呼ぶ行為の形式にも、粋と名づける性向にもこうした「排除」の原則が貫かれているのであって、ミシェル・ド・セルトーが逆説的にいうように、「歴史」は、或る意味では排除したものの総体であるのかも知れない。

秩序化とは、連続的で、無定形の知覚の流れをはっきりとした一組の全体的なものに変質させるような作業。(バウマン)
こうした知覚の文化的領域の境界を劃するものとしての「タブー」という概念。(エドマンド・リーチ、メアリー・ダグラス)
「タブー」を、リーチは断片化した連続体の中の「名づけられた」部分の承認を拒む行為であるという。
こして除外され切り捨てられた「混沌」の部分は、文化のプラクシスの記号論的働きかけによって周縁的な部分に姿を現さなければ、存在しないも同然であるといえる。
ただし、この部分は近くの周辺をさまよって、秩序化された意識に対して、幻想、或いは無意識を通して働きかける。タブー及び象徴が増殖するのは幽明境を明らかにしない部分においてである。