2009-08-12

『文化と両義性』に見る 本当のフェミニズムとは

今後参照する重要部分の抜粋。

山口昌男『文化と両義性』
第3章―2より
境界は多義的である故、そこには日常生活の中では位置を与えられないイメージがたち現れる可能性を持つ。二つの矛盾するものが同時に現れることができる。
そこでは、イメージ及び象徴が、言葉になる以前に絶えず立ち現れ、増殖し、新らしい統合をとげる。

「我々」の側において、秩序が支配的であり、この秩序の中で、すべては恒常的であり、起こりうることに如何に対応すればよいかもわかっている。
これに反して彼方の側において、一寸先は闇であり、すべてが不確定的である。
勿論、「此方」も「彼方」も、意識の内側の状態の投影に過ぎないことはいう迄もない。
「彼方」は意識の下層の或る状態の投影物である限り、若し「彼ら」が存在しなければ、「彼ら」を創出しなければならない。
ここで、働く論理は、「彼ら」は「我々」の対の一部であるというそれである。
「我ら」のアイデンティティが確認されるために、「彼ら」は必要なのであり、彼らはそういった意味で有用なのである。
キリスト教社会がゲットーを必要とした文化的前提はここにある。・・・多くの社会で、女性が潜在的にこういった内側の彼らの位置を占めている。

秩序を確認するためには、境界を設定することが必須の前提であり、境界のイメージを生き生きと、想像力に働きかけるように浮かび上がらせるためには、(中略)この空間に出没する魔性の者を作りあげるのが最も有効な近道である。この魔性の者は、人間のまともな形(=シンタックス)という形で表される「秩序」の骨格と、動物的部分(=語)を備えていることが望ましい。


女性の問題は、第一波フェミニズム的な思考では決して本当には解決できない。
それは、キャリル・チャーチルのTop Girlsでも、すでに明らかにされたことではあるが、(放送大学の「英語中級B」を参照」)
『文化と両義性』の第3章、第4章を読むと、女性の問題における解決は、キャリル・チャーチルが求めたよりももっと根本的な、人間の意識の構造にまで遡らなければならないことがわかる。