2009-09-22

共同体における脆弱性と異人の問題

引き続き、山口昌男『文化と両義性』より。
ひとつの集団を「絶滅」「抹消」させる意図を持った暴力―ホロコースト、原爆―の根源が何なのかを探りたいと思う。それは、概念上でしかない「理想の身体」に、本来は豊かな意味の源泉である身体を封じ込めようとする権力と関係しているのではないか。

神送りの習俗の目指すところは、境界を介して村の秩序たる「文化」に対抗する「自然」的要素(サネモリ、泥棒、御霊、害虫、怨霊、風の神、等々)を視覚化することによって、混沌の要素を秩序に対置し、騒音を以って、宇宙的な亀裂を生じさせることによって、時間および空間を蘇らせるところにある。
…特にマルディ・グラの日には、こうした人形、或いは動物(鶏)などを選んで、これに前年の厄、穢れなどを背負わせて破却(イモレーション)するという習俗は広く伝えられている。こうした悪の象徴ともいうべきものを顕在化させて、これを可視的なものにするという行為には、混沌を喚び起こすことによって、負のエントロピーを吸収させて、世界を浄化させる機能が組み込まれている。
…それは、内側における境界性の喚起と、そうして喚起されたもののフィジカルな境界(村境)への転移、そうすることによって「徴あり」としての境界の強調、という儀礼的=記号論的秩序の再構築が行われるということになるのである。

「異人」は何よりも、その「脆弱性 ヴァルネラビリティー」を意味している。それは共同体の中でのお先真暗の弱さであり、挙動における弱々しさであり、「異人」をその特殊な片隅に追い込むに至らしめる集団の「異人」志向の問題でもあった。…どの家族にも、寝小便とか、怠け者とか、盗癖とか、虚言性といった汚名を陰に陽に着せられて潜在的に差別される子供がある。家族の平和とは意外にも、こういった「排除の原則」の適用の上に成り立っているということになるのである。

人は連続性の線の内部への侵入をおそれる。この侵入を防ぐ行為は、境界および防壁を築くことによって解決される。ところがこれは外来者の侵入を防ぐというより、意識の内側の「異和的」な部分を可視的なものに転化することによって外在化し、こうして、境界外に追放しようという願望に外ならない。…よく「封じ込め」という言葉が使われるが、実は「封じ込め」るためのヌミノーシスの喚起の方が重要なのであって、「異和性」の侵入、エントロピーの増大を防ぐために、「異和性」を境界として顕在しようという試みに外ならない。