2009-10-05

「見えない仕事」「見える仕事」とジェンダー

久しぶりに、キャリル・チャーチルの戯曲”Top Girls”から考えること。

マーレーンは、かつて男のみが占めていた地位をつかんだ女であり、ジョイスは、以前から女が占めていた位置にとどまる女である。ジョイスにとって、自分達を犠牲にして成り立ってきた産業社会で成功した女性など、まばゆくも感じないし羨望の対象でもない、ただ自分達を犠牲にして報酬を得ている者の首がすげ替えられただけである。
ここから、従来の女/男のカテゴリーは、産業社会においては次のように分類され得る。つまり「無報酬・低報酬で見えない仕事をする人たち」/「報酬を前提に見える仕事をする人たち」である。

例えば私の周囲に、子供が0歳の時からフルタイムで働く女性がいる。「ママゴンたちとの付き合いはまっぴら、それに忙しい」ので、子供の学校のお手伝いになる諸活動には一切参加しない、と宣言している。週末は子供をどこの家にでも遊びに行かせるが、「休みくらいゆっくりしたい」ので自宅に子供の友達は呼ばない。つまり、地域社会を結ぶ「見えない仕事」には関わらない主義である。でもこれって、いくら女性として社会で成功しても、フェミニストたちが批判してきた一昔前の父親と同じだ。

一方女性、男性問わずフルタイムで仕事をしていても、学校のボランティア活動に参加したり、役員を引き受けたりする多くの人たちもいる。その上で現実として、今の日本の都市部において、地域社会の「見えない仕事」の大部分を引き受けているのは、専業もしくはパート勤務主婦である、と断言して差し支えないだろう。つまり、家庭において「見えない仕事」に献身している人たちの多くが、報酬を前提にする人たちが「見える仕事」に出かけている間に、地域社会で無報酬の「見えない仕事」の大部分も引き受けている、という現実である。

地域社会における無報酬の「見えない仕事」の他、ワーキングプア、派遣といった言葉に関連する低報酬で不安定な「見えない仕事」もある。つまり、工場での単純作業や、清掃、内職など、産業社会における陰の仕事と言ってもいいかもしれない。(陰、というのはあくまで見えない、隠れた、という意味である。)

現実に社会や経済を成り立たせているのは、これら無数の「見えない仕事」である。にも関わらず、それらは経済的に無報酬もしくは低報酬であり、「見える仕事」にのみ価値を抱く人々にとっては、「面倒くさい」「自分とは関係ない」「成功できていない人がする」ような仕事とされることが多い。一昔前、家事は女がやるものだと言われていたように。
以前は、外に出て仕事をする男 VS 家にいさせられる女 という構図が成り立ったかもしれない。しかしこの構図の現在は、かつての男の位置に、「見える仕事」にのみ価値を抱く人たちがあり、女の位置には「見えない仕事」に従事する人たちがある。
どちらも、生物学的な男女を問わない。ジェンダーは、もはや生物学的な女/男の区別を超えた問題となっている。それは、「見える仕事」と「見えない仕事」のバランスを、社会においても個人においてもどのように取っていくか、という問題である。

付記:
地域の「見えない仕事」は経済的には無報酬だが、地域の人々や子供達の喜びによって報われているはずだ、地域に関わるかどうかは自由ではないか、というような意見は、見えない仕事をやっている当事者の言葉である限りは有効である。そうでない場合は言い訳でしかない。「女は母性があるから家事育児に喜びを感じるはず」というのと同じレベルの、都合の良い言い訳である。

「見えない仕事」の中にも「見える仕事」がある。例えばPTAなら、行事の時だけ挨拶したり、来賓と会食する会長は見える仕事であり、現実に行事のお手伝いをしたり、書類を作ったりする人たちは見えない仕事であるといえる。

一般に、「見えない仕事」をしている人は「見える仕事」をしている人から正当に評価されたり、扱われたりしていないという感じを抱くケースが多くある。