2009-09-22

「徴あり」の排除は秩序の崩壊

山口昌男『文化と両義性』から。
「徴あり」の存在は、意識下で人間と宇宙とのつながりを保っているものであり、それを排除した「徴なし」集合の秩序は暴走・崩壊する。
文化の中の人間は、自らが、そういった負の根源的象徴から隔たっていることを、人に示し、自らも納得するために、身近に負の象徴を背負った人または事物の存在を必要とする。日常生活の中で、比較的歓迎される記号とは、それは、「かたち」のみ意識されるか、または「生きられる」かしている記号であり、こうして「徴づけ」られたものを排除した残りの部分からなっていると言いうる。しかしながら、我々の知覚作用は、世界に対して、「徴なし」の記号からなる秩序で整序しえない部分にまで及ぼされる。意識の中の因果関係のバランス・シートには納まりきらない部分を意識下の部分にゆだねる。

従って、記号は二重の作用を同時に行っているということにもなる。一方では、それは、負の項を対極において際立たせ排除しながら、他方では、負の項を通じて、未だ形をとらないが、人間が世界を全体的に捉えるために欠かせない宇宙力ともいうべき部分とのつながりを保たなければならない。この宇宙力とは、時にはエロスといわれ、時にはタナトスともいわれ、更にはまたニルヴァナとも「自然」ともいわれるかも知れない。しかし我々がそれに対して命名できる範囲は常に限られたものでしかない。この「開かれた」状態が閉じられたら、それは、「秩序」そのものを支え絶えず生成させる根源的な諸力の崩壊としてのエントロピーの増大にそのままつながることになる。

しかしながら文明が保証する「秩序」とは、そういった諸力からの逃避によって動機づけられてきたこともまた確かなことである。