2009-09-15

数量化された目的と身体

山口昌男『文化と両義性』より。
主流として流布している女性のイメージがどういうものか、同時に周縁に生まれてくる女性のイメージがどういうものか。それを知ることで、時代の深い部分で動いている流れをとらえることができるのではないか。

ガリレオ・ガリレイとデカルトに象徴される17世紀の合理的啓蒙主義が哲学を全体性から切り離したことは、西欧の知的感受性に致命的打撃を与えた…ガリレオ的客観主義が、現実を数量化し細分化し、断片化したこと…のもたらした結果は、現実を一元化し、数理的処理の対象たり得ない現実を、確実性の法則に基づいて排除したことにある。

女性の身体に目的を課してきた歴史は、ガリレイ、デカルト以前に勿論存在していた。
問題はそれが、近代において強大な力と正統性を与えられた科学技術(フッサールの観点によれば、この「数量化された」科学自体が、全体性からみれば相対的な、主観性の領野のひとつであったにもかかわらず)と結びついたことである。

社会が何かを排除する方向に動いている場合、主流の女性の身体には数量化または断片化した目的を(意識的に、無意識的に)課しているという事実が常につきまとう。その時、周縁の女性のイメージはどのように扱われているのだろうか。