2009-10-06

シンディ・シャーマンと虚構の身体


『無題のフィルム・スティル』におけるシンディの写真のイメージは、まったく突飛な女たちではない。それくらいの社会生活についてのイメージは、だれの頭のなかにもストックされているか、さもなければいろいろな方法、雑誌、書物、ヴィデオ等々のかたちで社会自身に記憶されている。シンディはこうした記憶のファイルからイメージを取り出してくる。
人間はこうした社会的イメージの記憶に接触することで、いかにも「主体」らしく出現する。そうでないと他者になる。いいかえるとこれまで人間は、主体という言葉に意味をこめてきたが、それはもっとも平均的なイメージが「主体」らしきものと措定されていたにすぎないのではないか。このフェイクな社会にあって、主体とはそのこと以上を意味するとは思えない。シンディの写真はこんなことを語っているのである。(多木浩二 『ヌード写真』)



イメージはもはや伝達の道具ではなく、いまや社会の方がみずからをイメージとして認識しはじめている。実体的世界があるかないかはここでは問題にしなくてもいい。実体として現実を問いはじめることが疑問に付されたのである。そのような方法では、われわれの生きている現実はもはや考えることはできない。彼女の写真は、われわれの社会での現実とは、このように起源を欠いた虚構でありながら現実性を獲得したものだということを明確にしようとしたのである。…彼女が現在は、おそろしくグロテスクなカラー写真を撮っているとしても不思議ではない。優しい若い女としてフェイクを演じていたとき、すでにそのようなグロテスクな世界を漠然とかいま見ていたからである。(多木浩二 『ヌード写真』)

ひとが、特に女性が、ときには暴力的なまでに自らの身体をつくり変えようとするのはなぜなのか。その視線の先にある理想的な身体は、イデオロギーがつくりだした虚構にすぎないのに。
戦争と産業のために、身体を訓練しつくり変えてきた近代。ダイエット、しわとり、整形、脱毛、カラーコンタクト、カラーリング、矯正…いま私たちは、虚構の理想的身体に1mmでも近づこうと必死で闘っている。

”もしも私が男なら、ホワイト・オウルを吸うのに”



メッセージ性において、バージニア・スリムとは対極にあるといえるタバコ広告。こちらは1965年、ベティ・フリーダンの『新しい女性の創造』後であるがNOWは組織される前年、ウーマン・リブが大きな流れをつくる前にあらわれた広告である。

”バージニア・スリムは女性のためにつくりました。生物学的に男より優れているから”




1960年代後半からアメリカで起こったウーマン・リブ運動の巨大なうねりに乗って、大成功を収めたのがタバコ会社である。

社会における女性の身体イメージにおいて、劇的な変化を必要としたウーマン・リブは、「産む性」そして「周縁性=穢れ」から解放された身体像を求めた。産む身体に必要な脂肪がついた身体、血液と交わる周期的な身体、そういった現実の身体性を削ぎ落とした”新しい”女性の理想身体。それは細く、力強く、これまで女性の身体が持っていた豊かな意味性を、ファッションに転化した身体である。
そして、そのイメージに接続することで劇的なイメージの転換を果たしたのが、タバコであり、その代表銘柄がバージニア・スリムであった。

1970年代初頭のアメリカにおいて、バージニア・スリムの広告は最も人気のある広告キャンペーンとなった。キャッチフレーズは常に、”You've Come a Long Way, Baby.”(長い道を来たじゃないの、ベイビー)。つまりウーマン・リブ、女性解放に至る長い道のりに重ね合わせて発信したのは、女性の喫煙は悪であり制裁されるべきであるという社会通念から、ついに解放される時が来たというメッセージであった。
バージニア・スリムの広告は、喫煙という行為、更に言えばバージニア・スリムを吸い続けるという行為が、女性の伝統的イメージに反抗する、最もクールで効果的なアクションであるというイメージを植えつけることに成功したのである。

上の画像は、70年代のバージニア・スリムの広告のひとつ。
最も”らしく”、どぎつい例かもしれない。下部にはお決まりの”You've Come a Long Way, Baby.”、メインのメッセージは、”We make Virginia Slims especially for women because they are biologically superior to men.” 「私達はバージニア・スリムを特別に女性のためにつくりました。なぜなら女性は男性よりも生物学的に優れているからです。」

2009-10-05

脱性の身体/体操/近代ドイツ

鷲田清一『悲鳴をあげる身体』より
ダイエット強迫からくる摂食障害、そこにはあまりに多くの観念たちが群れ、折り重なり、錯綜している。たとえば、社会が押しつけてくる「女らしさ」というイメージの拒絶、言い換えると、「成熟した女」のイメージを削ぎ落とした少女のような脱-性的な像へとじぶんを同化しようとすること。ヴィタミン、カロリー、血糖値、中性脂肪、食物繊維などへの知識と、そこに潜む「健康」幻想の倫理的テロリズム。老いること、衰えることへの不安、つまり、ヒトであれモノであれ、なにかの価値を生むことができることがその存在の価値であるという、近代社会の生産主義的な考え方…

脱性、もしくは無性の身体は、1900年代~30年代のドイツにもあらわれる。「性的欲望から自由である」ことを誇示するような、男女一対のヌード写真群である。

多木浩二『ヌード写真』より
二十世紀はじめのドイツのヌーディズムの理論家はウンゲヴィッターであったが、彼は男女ともに裸体になりながら性的な衝動からは解放されていると思い込もうとしていた。そんな衝動は堕落の証拠である――。…それは退化を超えた精神としての身体、いわば無性の身体、性的欲望という(生殖をのぞけば)おぞましいものを排除した理想的存在を目指す実践者たろうとすることであった。

二十世紀はじめのドイツのヌーディズムは、十九世紀のさまざまな科学的言説(それ自体もいかがわしいが)が、民族文化とか人種主義とかに結合したとき、歴史にあらわれてきたのである。ヌーディズムを支える「性」のイデオロギーは、民族と文化の純粋性を維持するために「性」を管理する思想に遠くではつながっていた。この性の政治学は、身体から「性」を剥奪していくイデオロギーであったのである。全体主義あるいは国家主義という二十世紀の身体経験は、一見すると体育運動の延長にあり、身体は強調するが、反対に「性的欲望」あるいは「性的身体」としての存在は抹消する方向にあった。性的衝動はどこにいくのか。ヌーディズムのダンスによる陶酔や体育好み、さらにはあのナチ独特の集団的エクスタシーがこの否認された性的欲望の充足を引き受けていたのではなかろうか。

ちなみに、というか「体育好み」を論じるにあたって非常に大事な点であるが、現在、器械体操と呼ばれるものは、ドイツのフリードリッヒ・ルートヴィヒ・ヤーンのトゥルネンが基礎になっている。それは、ドイツの国民意識を創出するという意図の中で考案された、ドイツ青年男子の体操運動であった。礼拝とトゥルネン指導者の賞賛、名跡での戦記の朗読、規律、回数で測定される出来栄え、競争と小集団内の結束、そして道徳的な脆弱であり身体に有害なものとされた自慰や女性との性交。
つまり、器械体操の誕生は近代国家、戦闘、男性性の優位と切り離すことができない。
(この時代の)女性のイメージは性的でないから、ピン・アップのように性的な誘惑を振りまくことはなかった。これは女性を尊重してのことではなく、女性の性が生殖能力だけに固定されていたからである。

レーベンスボルンに象徴されるように、ナチは「第三帝国を支える戦士を産む」という役割のために、ドイツ人(アーリア人)女性(正確には産む性)を保護する政策を実行したのである。

「見えない仕事」「見える仕事」とジェンダー

久しぶりに、キャリル・チャーチルの戯曲”Top Girls”から考えること。

マーレーンは、かつて男のみが占めていた地位をつかんだ女であり、ジョイスは、以前から女が占めていた位置にとどまる女である。ジョイスにとって、自分達を犠牲にして成り立ってきた産業社会で成功した女性など、まばゆくも感じないし羨望の対象でもない、ただ自分達を犠牲にして報酬を得ている者の首がすげ替えられただけである。
ここから、従来の女/男のカテゴリーは、産業社会においては次のように分類され得る。つまり「無報酬・低報酬で見えない仕事をする人たち」/「報酬を前提に見える仕事をする人たち」である。

例えば私の周囲に、子供が0歳の時からフルタイムで働く女性がいる。「ママゴンたちとの付き合いはまっぴら、それに忙しい」ので、子供の学校のお手伝いになる諸活動には一切参加しない、と宣言している。週末は子供をどこの家にでも遊びに行かせるが、「休みくらいゆっくりしたい」ので自宅に子供の友達は呼ばない。つまり、地域社会を結ぶ「見えない仕事」には関わらない主義である。でもこれって、いくら女性として社会で成功しても、フェミニストたちが批判してきた一昔前の父親と同じだ。

一方女性、男性問わずフルタイムで仕事をしていても、学校のボランティア活動に参加したり、役員を引き受けたりする多くの人たちもいる。その上で現実として、今の日本の都市部において、地域社会の「見えない仕事」の大部分を引き受けているのは、専業もしくはパート勤務主婦である、と断言して差し支えないだろう。つまり、家庭において「見えない仕事」に献身している人たちの多くが、報酬を前提にする人たちが「見える仕事」に出かけている間に、地域社会で無報酬の「見えない仕事」の大部分も引き受けている、という現実である。

地域社会における無報酬の「見えない仕事」の他、ワーキングプア、派遣といった言葉に関連する低報酬で不安定な「見えない仕事」もある。つまり、工場での単純作業や、清掃、内職など、産業社会における陰の仕事と言ってもいいかもしれない。(陰、というのはあくまで見えない、隠れた、という意味である。)

現実に社会や経済を成り立たせているのは、これら無数の「見えない仕事」である。にも関わらず、それらは経済的に無報酬もしくは低報酬であり、「見える仕事」にのみ価値を抱く人々にとっては、「面倒くさい」「自分とは関係ない」「成功できていない人がする」ような仕事とされることが多い。一昔前、家事は女がやるものだと言われていたように。
以前は、外に出て仕事をする男 VS 家にいさせられる女 という構図が成り立ったかもしれない。しかしこの構図の現在は、かつての男の位置に、「見える仕事」にのみ価値を抱く人たちがあり、女の位置には「見えない仕事」に従事する人たちがある。
どちらも、生物学的な男女を問わない。ジェンダーは、もはや生物学的な女/男の区別を超えた問題となっている。それは、「見える仕事」と「見えない仕事」のバランスを、社会においても個人においてもどのように取っていくか、という問題である。

付記:
地域の「見えない仕事」は経済的には無報酬だが、地域の人々や子供達の喜びによって報われているはずだ、地域に関わるかどうかは自由ではないか、というような意見は、見えない仕事をやっている当事者の言葉である限りは有効である。そうでない場合は言い訳でしかない。「女は母性があるから家事育児に喜びを感じるはず」というのと同じレベルの、都合の良い言い訳である。

「見えない仕事」の中にも「見える仕事」がある。例えばPTAなら、行事の時だけ挨拶したり、来賓と会食する会長は見える仕事であり、現実に行事のお手伝いをしたり、書類を作ったりする人たちは見えない仕事であるといえる。

一般に、「見えない仕事」をしている人は「見える仕事」をしている人から正当に評価されたり、扱われたりしていないという感じを抱くケースが多くある。