2009-04-22

琉球アンダーグラウンド & Konono No.1

放送大学の専門科目「芸術・文化・社会」4章 ”音楽がつくる身体とテクノロジーの音楽”で紹介されていた
琉球アンダーグラウンドのビデオクリップ。

Ryukyu Underground



同じく掲載されていた、Konono No.1



”コンゴ民主共和国で30年近くにわたって活動しているKonono No.1は、伝統的な楽器であるリケンベ(いわゆる「親指ピアノ」)をエレキ化し、自動車部品の流用を含むさまざまな打楽器とともに、これまた自動車部品などから自作したマイクロフォンを用いて、反復性の強い「ダンス・ミュージック」を演奏している。”
(「芸術・文化・社会」第4章より)

「悲鳴をあげる身体」

「悲鳴をあげる身体」
女性の身体がどのように所有されているか、が
映画や絵画の中でどう描かれているか、に興味があったところ
偶然ある方に教えて頂いた本。

よーく見たら、放送大学の「芸術・文化・社会」で2章と3章をご担当の
鷲田清一先生が書かれた本でした。
ひとはごくわずかな「感情の浮沈」によってその存在が深く惑わされてしまうものなのであって、他人との交わり、あるいは信頼にもとづいた関係というものを失ったときに、ひとは食欲そのものをもひどく狂わされてしまう。
・・・「精神病院での食事時のもの悲しい光景は、ひごろはのろのろと動いている患者たちの恐ろしい速度の『早食い』である。また・・・食物に毒が盛られていると確信している被害妄想は、人間学的には信頼というものの喪失のすさまじい表現に他ならない」、と。
人間としての近さや親しみの感情を失った時、食もまた崩れるのである。

身体をめぐるさまざまの記事が新聞に載らない日はない。
人びとはなぜこうも身体を気にするようになったのかと、あらためて考えさせられる、いろいろな契機が渦巻いている。
が、はっきりしているのは、身体がその独自のゆるみやゆらぎ、あるいは独自のコモンセンスを失って、がちがちになっているということ、言ってみれば加減とか融通がきかなくなっているということである。
身体はいま、健康とか清潔、衛生、強壮、快感といった観念に憑かれてがちがちになっている。
パニック・ボディ。そう、身体がいまいろんなところで悲鳴をあげている。

2009-04-16

キャリル・チャーチル"Top Girls"のフェミニズム(3)

女優ルー・ウェイクフィールドのコメント(Session 4)
Top Girls is a feminist play in that it's self-criticism of the women's movement...
Some women are succeeding and getting on very well, but it's no good if feminism means that women get on and tread on men's heads, or other women's heads, as hard as men ever tread on theirs.
If women do get the top jobs, there's also a job to be done in reassessing that job in feminist or humanitarian terms.

フェミニズムは、女性<わたし>の成功=他人(男であれ、女であれ)を踏みつける、ことを意図してはならない。
女性がトップの仕事を得たら、その仕事をフェミニズム/人道主義のコトバで再評価する作業もある。

他人の犠牲の上に女性<わたし>の名声を築くような価値観と決別した、人道主義に根ざした新しい価値観ともいうべきフェミニズムへ。そしてそのタームで、ある「社会的成功」の価値を再判断することの重要性が語られている。

Elaine Astonの批評(Session4)
The kind of questions that Churchill asks through her theater reflect her feminist and socialist viewpoints, but allied to her interrogative, political mode of writing is her experimental approach to dramatic and theatrical form. Churchill's theater is not jest a question of politics, but a politics of style.

チャーチルの劇作家としての立場は、ある意味、マーリーンの重役昇進―社会的成功―と重なっている。
ルー・ウェイクフィールドが言う、「女性の社会的成功を、フェミニズム/人道主義のコトバで捉えなおす」作業は、チャーチルにおいては「女性劇作家としての社会的成功を、フェミニズム、社会主義の立場からの戯曲制作、そして戯曲の”型”への実験的アプローチによって、世に問い続ける」作業といえるかもしれない。