2009-10-06

シンディ・シャーマンと虚構の身体


『無題のフィルム・スティル』におけるシンディの写真のイメージは、まったく突飛な女たちではない。それくらいの社会生活についてのイメージは、だれの頭のなかにもストックされているか、さもなければいろいろな方法、雑誌、書物、ヴィデオ等々のかたちで社会自身に記憶されている。シンディはこうした記憶のファイルからイメージを取り出してくる。
人間はこうした社会的イメージの記憶に接触することで、いかにも「主体」らしく出現する。そうでないと他者になる。いいかえるとこれまで人間は、主体という言葉に意味をこめてきたが、それはもっとも平均的なイメージが「主体」らしきものと措定されていたにすぎないのではないか。このフェイクな社会にあって、主体とはそのこと以上を意味するとは思えない。シンディの写真はこんなことを語っているのである。(多木浩二 『ヌード写真』)



イメージはもはや伝達の道具ではなく、いまや社会の方がみずからをイメージとして認識しはじめている。実体的世界があるかないかはここでは問題にしなくてもいい。実体として現実を問いはじめることが疑問に付されたのである。そのような方法では、われわれの生きている現実はもはや考えることはできない。彼女の写真は、われわれの社会での現実とは、このように起源を欠いた虚構でありながら現実性を獲得したものだということを明確にしようとしたのである。…彼女が現在は、おそろしくグロテスクなカラー写真を撮っているとしても不思議ではない。優しい若い女としてフェイクを演じていたとき、すでにそのようなグロテスクな世界を漠然とかいま見ていたからである。(多木浩二 『ヌード写真』)

ひとが、特に女性が、ときには暴力的なまでに自らの身体をつくり変えようとするのはなぜなのか。その視線の先にある理想的な身体は、イデオロギーがつくりだした虚構にすぎないのに。
戦争と産業のために、身体を訓練しつくり変えてきた近代。ダイエット、しわとり、整形、脱毛、カラーコンタクト、カラーリング、矯正…いま私たちは、虚構の理想的身体に1mmでも近づこうと必死で闘っている。

”もしも私が男なら、ホワイト・オウルを吸うのに”



メッセージ性において、バージニア・スリムとは対極にあるといえるタバコ広告。こちらは1965年、ベティ・フリーダンの『新しい女性の創造』後であるがNOWは組織される前年、ウーマン・リブが大きな流れをつくる前にあらわれた広告である。

”バージニア・スリムは女性のためにつくりました。生物学的に男より優れているから”




1960年代後半からアメリカで起こったウーマン・リブ運動の巨大なうねりに乗って、大成功を収めたのがタバコ会社である。

社会における女性の身体イメージにおいて、劇的な変化を必要としたウーマン・リブは、「産む性」そして「周縁性=穢れ」から解放された身体像を求めた。産む身体に必要な脂肪がついた身体、血液と交わる周期的な身体、そういった現実の身体性を削ぎ落とした”新しい”女性の理想身体。それは細く、力強く、これまで女性の身体が持っていた豊かな意味性を、ファッションに転化した身体である。
そして、そのイメージに接続することで劇的なイメージの転換を果たしたのが、タバコであり、その代表銘柄がバージニア・スリムであった。

1970年代初頭のアメリカにおいて、バージニア・スリムの広告は最も人気のある広告キャンペーンとなった。キャッチフレーズは常に、”You've Come a Long Way, Baby.”(長い道を来たじゃないの、ベイビー)。つまりウーマン・リブ、女性解放に至る長い道のりに重ね合わせて発信したのは、女性の喫煙は悪であり制裁されるべきであるという社会通念から、ついに解放される時が来たというメッセージであった。
バージニア・スリムの広告は、喫煙という行為、更に言えばバージニア・スリムを吸い続けるという行為が、女性の伝統的イメージに反抗する、最もクールで効果的なアクションであるというイメージを植えつけることに成功したのである。

上の画像は、70年代のバージニア・スリムの広告のひとつ。
最も”らしく”、どぎつい例かもしれない。下部にはお決まりの”You've Come a Long Way, Baby.”、メインのメッセージは、”We make Virginia Slims especially for women because they are biologically superior to men.” 「私達はバージニア・スリムを特別に女性のためにつくりました。なぜなら女性は男性よりも生物学的に優れているからです。」

2009-10-05

脱性の身体/体操/近代ドイツ

鷲田清一『悲鳴をあげる身体』より
ダイエット強迫からくる摂食障害、そこにはあまりに多くの観念たちが群れ、折り重なり、錯綜している。たとえば、社会が押しつけてくる「女らしさ」というイメージの拒絶、言い換えると、「成熟した女」のイメージを削ぎ落とした少女のような脱-性的な像へとじぶんを同化しようとすること。ヴィタミン、カロリー、血糖値、中性脂肪、食物繊維などへの知識と、そこに潜む「健康」幻想の倫理的テロリズム。老いること、衰えることへの不安、つまり、ヒトであれモノであれ、なにかの価値を生むことができることがその存在の価値であるという、近代社会の生産主義的な考え方…

脱性、もしくは無性の身体は、1900年代~30年代のドイツにもあらわれる。「性的欲望から自由である」ことを誇示するような、男女一対のヌード写真群である。

多木浩二『ヌード写真』より
二十世紀はじめのドイツのヌーディズムの理論家はウンゲヴィッターであったが、彼は男女ともに裸体になりながら性的な衝動からは解放されていると思い込もうとしていた。そんな衝動は堕落の証拠である――。…それは退化を超えた精神としての身体、いわば無性の身体、性的欲望という(生殖をのぞけば)おぞましいものを排除した理想的存在を目指す実践者たろうとすることであった。

二十世紀はじめのドイツのヌーディズムは、十九世紀のさまざまな科学的言説(それ自体もいかがわしいが)が、民族文化とか人種主義とかに結合したとき、歴史にあらわれてきたのである。ヌーディズムを支える「性」のイデオロギーは、民族と文化の純粋性を維持するために「性」を管理する思想に遠くではつながっていた。この性の政治学は、身体から「性」を剥奪していくイデオロギーであったのである。全体主義あるいは国家主義という二十世紀の身体経験は、一見すると体育運動の延長にあり、身体は強調するが、反対に「性的欲望」あるいは「性的身体」としての存在は抹消する方向にあった。性的衝動はどこにいくのか。ヌーディズムのダンスによる陶酔や体育好み、さらにはあのナチ独特の集団的エクスタシーがこの否認された性的欲望の充足を引き受けていたのではなかろうか。

ちなみに、というか「体育好み」を論じるにあたって非常に大事な点であるが、現在、器械体操と呼ばれるものは、ドイツのフリードリッヒ・ルートヴィヒ・ヤーンのトゥルネンが基礎になっている。それは、ドイツの国民意識を創出するという意図の中で考案された、ドイツ青年男子の体操運動であった。礼拝とトゥルネン指導者の賞賛、名跡での戦記の朗読、規律、回数で測定される出来栄え、競争と小集団内の結束、そして道徳的な脆弱であり身体に有害なものとされた自慰や女性との性交。
つまり、器械体操の誕生は近代国家、戦闘、男性性の優位と切り離すことができない。
(この時代の)女性のイメージは性的でないから、ピン・アップのように性的な誘惑を振りまくことはなかった。これは女性を尊重してのことではなく、女性の性が生殖能力だけに固定されていたからである。

レーベンスボルンに象徴されるように、ナチは「第三帝国を支える戦士を産む」という役割のために、ドイツ人(アーリア人)女性(正確には産む性)を保護する政策を実行したのである。

「見えない仕事」「見える仕事」とジェンダー

久しぶりに、キャリル・チャーチルの戯曲”Top Girls”から考えること。

マーレーンは、かつて男のみが占めていた地位をつかんだ女であり、ジョイスは、以前から女が占めていた位置にとどまる女である。ジョイスにとって、自分達を犠牲にして成り立ってきた産業社会で成功した女性など、まばゆくも感じないし羨望の対象でもない、ただ自分達を犠牲にして報酬を得ている者の首がすげ替えられただけである。
ここから、従来の女/男のカテゴリーは、産業社会においては次のように分類され得る。つまり「無報酬・低報酬で見えない仕事をする人たち」/「報酬を前提に見える仕事をする人たち」である。

例えば私の周囲に、子供が0歳の時からフルタイムで働く女性がいる。「ママゴンたちとの付き合いはまっぴら、それに忙しい」ので、子供の学校のお手伝いになる諸活動には一切参加しない、と宣言している。週末は子供をどこの家にでも遊びに行かせるが、「休みくらいゆっくりしたい」ので自宅に子供の友達は呼ばない。つまり、地域社会を結ぶ「見えない仕事」には関わらない主義である。でもこれって、いくら女性として社会で成功しても、フェミニストたちが批判してきた一昔前の父親と同じだ。

一方女性、男性問わずフルタイムで仕事をしていても、学校のボランティア活動に参加したり、役員を引き受けたりする多くの人たちもいる。その上で現実として、今の日本の都市部において、地域社会の「見えない仕事」の大部分を引き受けているのは、専業もしくはパート勤務主婦である、と断言して差し支えないだろう。つまり、家庭において「見えない仕事」に献身している人たちの多くが、報酬を前提にする人たちが「見える仕事」に出かけている間に、地域社会で無報酬の「見えない仕事」の大部分も引き受けている、という現実である。

地域社会における無報酬の「見えない仕事」の他、ワーキングプア、派遣といった言葉に関連する低報酬で不安定な「見えない仕事」もある。つまり、工場での単純作業や、清掃、内職など、産業社会における陰の仕事と言ってもいいかもしれない。(陰、というのはあくまで見えない、隠れた、という意味である。)

現実に社会や経済を成り立たせているのは、これら無数の「見えない仕事」である。にも関わらず、それらは経済的に無報酬もしくは低報酬であり、「見える仕事」にのみ価値を抱く人々にとっては、「面倒くさい」「自分とは関係ない」「成功できていない人がする」ような仕事とされることが多い。一昔前、家事は女がやるものだと言われていたように。
以前は、外に出て仕事をする男 VS 家にいさせられる女 という構図が成り立ったかもしれない。しかしこの構図の現在は、かつての男の位置に、「見える仕事」にのみ価値を抱く人たちがあり、女の位置には「見えない仕事」に従事する人たちがある。
どちらも、生物学的な男女を問わない。ジェンダーは、もはや生物学的な女/男の区別を超えた問題となっている。それは、「見える仕事」と「見えない仕事」のバランスを、社会においても個人においてもどのように取っていくか、という問題である。

付記:
地域の「見えない仕事」は経済的には無報酬だが、地域の人々や子供達の喜びによって報われているはずだ、地域に関わるかどうかは自由ではないか、というような意見は、見えない仕事をやっている当事者の言葉である限りは有効である。そうでない場合は言い訳でしかない。「女は母性があるから家事育児に喜びを感じるはず」というのと同じレベルの、都合の良い言い訳である。

「見えない仕事」の中にも「見える仕事」がある。例えばPTAなら、行事の時だけ挨拶したり、来賓と会食する会長は見える仕事であり、現実に行事のお手伝いをしたり、書類を作ったりする人たちは見えない仕事であるといえる。

一般に、「見えない仕事」をしている人は「見える仕事」をしている人から正当に評価されたり、扱われたりしていないという感じを抱くケースが多くある。

2009-09-22

「徴あり」の排除は秩序の崩壊

山口昌男『文化と両義性』から。
「徴あり」の存在は、意識下で人間と宇宙とのつながりを保っているものであり、それを排除した「徴なし」集合の秩序は暴走・崩壊する。
文化の中の人間は、自らが、そういった負の根源的象徴から隔たっていることを、人に示し、自らも納得するために、身近に負の象徴を背負った人または事物の存在を必要とする。日常生活の中で、比較的歓迎される記号とは、それは、「かたち」のみ意識されるか、または「生きられる」かしている記号であり、こうして「徴づけ」られたものを排除した残りの部分からなっていると言いうる。しかしながら、我々の知覚作用は、世界に対して、「徴なし」の記号からなる秩序で整序しえない部分にまで及ぼされる。意識の中の因果関係のバランス・シートには納まりきらない部分を意識下の部分にゆだねる。

従って、記号は二重の作用を同時に行っているということにもなる。一方では、それは、負の項を対極において際立たせ排除しながら、他方では、負の項を通じて、未だ形をとらないが、人間が世界を全体的に捉えるために欠かせない宇宙力ともいうべき部分とのつながりを保たなければならない。この宇宙力とは、時にはエロスといわれ、時にはタナトスともいわれ、更にはまたニルヴァナとも「自然」ともいわれるかも知れない。しかし我々がそれに対して命名できる範囲は常に限られたものでしかない。この「開かれた」状態が閉じられたら、それは、「秩序」そのものを支え絶えず生成させる根源的な諸力の崩壊としてのエントロピーの増大にそのままつながることになる。

しかしながら文明が保証する「秩序」とは、そういった諸力からの逃避によって動機づけられてきたこともまた確かなことである。

「罪深き」身体と暴力性

文化の記号論的基礎としての「排除の原則」または「犠牲者のでっち上げ」の論理について精神分析学者トマス・シャシュは、ゲームの理論を利用しながら西欧中世の魔女狩りを次のように説明する。
先ず中世の神、キリスト及びキリスト教神学は、悪しき神及びその眷属(悪魔・ウィッチ・妖術師)の存在という信念から切り離すことはできない対概念である。この対概念という視覚から見ると、ウィッチについて語られる性的無軌道というイメージもカソリック教会の公的反性的態度の一方の片われということになる。そこで、魔女たちを焼き、彼女らの身体の破壊を強調するのも、中世の人間の神学的世界観という前提において考えなければならない。神学的世界観では、身体は弱く罪深き存在である。このゲームの公的ルールによれば、肉体は悪で、魂は善である。肉体を痛めつけることは、魂を高貴なものにする最も確かな方法である。

殉教は、魔女の火あぶりと直線で結ばれている。
西欧中世においては性的行為の方は…著しく乱れていた。ところが法は、殆どの俗人が従うつもりのないような高い規準を設けていた。当時の人間は、あたかも自分達が法にのっとっていきているかの如く装い、自ら信じるために、このような法に従わない人間がいることを強調する必要に迫られていた。こうして「犠牲山羊(スケープゴート)」が創り出される。スケープゴートには得体の知れない力の持ち主である女性が選ばれる。

「秩序」形成と「他所者」の排除

山口昌男『文化と両義性』から。
先へ進むには、「他所者の排除」と「暴力」が結びつく契機は何であるかを明らかにする必要がある。

「秩序」形成とは、混沌という名の、連続的で形を欠いたものの中から一定の見分けのつく塊りを取り出す記号論的行為である…文化のプラクシスは、こうして、「秩序」の側からの「周縁」に対する働きかけによるコミュニケーション(交感)によって保証されている。こういった、記号のレヴェルにおける周縁の強調は「犠牲者(ヴィクチメージ)のでっち上げ」という行為を通して「秩序」と「混沌」の弁証法形成に最もダイナミックな形で働くことを明示したのは、ケネス・バークである。バークは、あらゆる反秩序的マイナス記号を付された「犠牲者」との距離において文化は「秩序」を形成する、という文化のプラクシスの根本原理を明らかにする。秘儀としての「犠牲者」の象徴的抹殺が、文化の隠された根源にあることを示した。

「女性」は潜在的「他所者」として象徴論的に排除され易い存在である。

「村の衆」と「他所者」、「身内」と「他人」といった区分は、殆どすべての社会において、人間のアイデンティティ形成の前提として存在する。この区分は、必然的に、事物の記号論的分裂を惹き起こさずにはいない。すなわち存在の名づけられたものの肯定と否定の側への分離、それに伴う形容詞の配分がそれである。

以下の文は「犠牲者(ヴィクチメージ)のでっち上げ」の文脈で書かれている。一般的にいう加害者(ナチスドイツやスターリン体制など)を正当化しているのではないことはよく読めば明らかである。
多くの分類がそうであるように、分類されることによって各項は、いっそう一つのものの異なった現れ方をする…。こうした点は、スターリン体制下における「トロツキスト」またはキリスト教国、特にナチスドイツにおけるユダヤ人を例にとって見ても確かめられることである。「加害者」が実は「被害者」であって、「被害者」と自己を同一化する共同体側が、「加害者」を作り出さなければならないという…点は、ウィッチクラフトが、社会的・心理的現象であると共に、K・バーグのいうように「原論理学(ロゴロジー)」的・宇宙論的現象であることを明確にしなければ、充分に理解されえないと思われる。

共同体における脆弱性と異人の問題

引き続き、山口昌男『文化と両義性』より。
ひとつの集団を「絶滅」「抹消」させる意図を持った暴力―ホロコースト、原爆―の根源が何なのかを探りたいと思う。それは、概念上でしかない「理想の身体」に、本来は豊かな意味の源泉である身体を封じ込めようとする権力と関係しているのではないか。

神送りの習俗の目指すところは、境界を介して村の秩序たる「文化」に対抗する「自然」的要素(サネモリ、泥棒、御霊、害虫、怨霊、風の神、等々)を視覚化することによって、混沌の要素を秩序に対置し、騒音を以って、宇宙的な亀裂を生じさせることによって、時間および空間を蘇らせるところにある。
…特にマルディ・グラの日には、こうした人形、或いは動物(鶏)などを選んで、これに前年の厄、穢れなどを背負わせて破却(イモレーション)するという習俗は広く伝えられている。こうした悪の象徴ともいうべきものを顕在化させて、これを可視的なものにするという行為には、混沌を喚び起こすことによって、負のエントロピーを吸収させて、世界を浄化させる機能が組み込まれている。
…それは、内側における境界性の喚起と、そうして喚起されたもののフィジカルな境界(村境)への転移、そうすることによって「徴あり」としての境界の強調、という儀礼的=記号論的秩序の再構築が行われるということになるのである。

「異人」は何よりも、その「脆弱性 ヴァルネラビリティー」を意味している。それは共同体の中でのお先真暗の弱さであり、挙動における弱々しさであり、「異人」をその特殊な片隅に追い込むに至らしめる集団の「異人」志向の問題でもあった。…どの家族にも、寝小便とか、怠け者とか、盗癖とか、虚言性といった汚名を陰に陽に着せられて潜在的に差別される子供がある。家族の平和とは意外にも、こういった「排除の原則」の適用の上に成り立っているということになるのである。

人は連続性の線の内部への侵入をおそれる。この侵入を防ぐ行為は、境界および防壁を築くことによって解決される。ところがこれは外来者の侵入を防ぐというより、意識の内側の「異和的」な部分を可視的なものに転化することによって外在化し、こうして、境界外に追放しようという願望に外ならない。…よく「封じ込め」という言葉が使われるが、実は「封じ込め」るためのヌミノーシスの喚起の方が重要なのであって、「異和性」の侵入、エントロピーの増大を防ぐために、「異和性」を境界として顕在しようという試みに外ならない。

2009-09-15

数量化された目的と身体

山口昌男『文化と両義性』より。
主流として流布している女性のイメージがどういうものか、同時に周縁に生まれてくる女性のイメージがどういうものか。それを知ることで、時代の深い部分で動いている流れをとらえることができるのではないか。

ガリレオ・ガリレイとデカルトに象徴される17世紀の合理的啓蒙主義が哲学を全体性から切り離したことは、西欧の知的感受性に致命的打撃を与えた…ガリレオ的客観主義が、現実を数量化し細分化し、断片化したこと…のもたらした結果は、現実を一元化し、数理的処理の対象たり得ない現実を、確実性の法則に基づいて排除したことにある。

女性の身体に目的を課してきた歴史は、ガリレイ、デカルト以前に勿論存在していた。
問題はそれが、近代において強大な力と正統性を与えられた科学技術(フッサールの観点によれば、この「数量化された」科学自体が、全体性からみれば相対的な、主観性の領野のひとつであったにもかかわらず)と結びついたことである。

社会が何かを排除する方向に動いている場合、主流の女性の身体には数量化または断片化した目的を(意識的に、無意識的に)課しているという事実が常につきまとう。その時、周縁の女性のイメージはどのように扱われているのだろうか。

2009-09-14

Natural Reader でフランス語練習

当然といえば当然なのだけれど、フランス語学習の教材は、英語学習のそれよりも圧倒的に少ない。
英語なら、今やネット上で、smart.fmでもyapprでも、skypeを使うマンツーマンの英会話レッスンでも、無料or格安で上達させる術は山ほどある。
私が留学する前は、英字新聞と米軍放送のニュースをシャドーイングするくらいしか、生の英語に触れて上達させる方法がなかったから、本当に良い時代が来たものだけど、フランス語学習者はその恩恵に与っているとは言い難い。

生のフランス語でも何でもなくて、次善の策ではあるけれど、私が今フランス語の音読のために重宝しているのが”Natural Reader”というtext-to-speech、いわゆる音声合成ソフトだ。
これは、電子辞書みたいなガチガチ不自然な音声ではなくて、ネイティブの自然な発音により近いNatural Voiceを使っている。発音の速度も20段階に変えられるし、音声ファイルに変換して携帯にダウンロードしてこられるので、とても便利。

これに、ウェブ上からフランス語のニュースや文章を引っ張ってきて、発音をチェックしながら覚えるまで読み込む、という形でフランス語を勉強している。

音声ダウンロードなし、字数制限あり(1000ワード)でも良ければ、音声合成でフランス語でも、英語でも、日本語でも読んでくれる無料サイト、imtranslatorもあります。(登場する顔がコワいけど!)

2009-08-14

女性の身体受容を解く手がかり

再び山口昌男『文化と両義性』より。
「徴つき」「排除されたもの」「周縁」としての女性の身体を考える手掛かりになる箇所を抜書き。
意味作用は、単独の範疇では成り立たず、関係項の存在を前提とする。
一つの記号の存在は、他の不在の存在を意味する。逆に不在(マイナス記号)は、記号の存在を明らかにするという構造論的仕掛けが、記号の意味作用を保証しているといえよう。
従って、特定の文化的記号のパターンの意味論上の価値は、対の項における対立要素と異なるという点にある。それらは・・・対立する質、及び分化した価値の担い手によって逆照射され、特徴づけられるのである。

対立は必然的に排除の関係をも前提とする。より広汎にとられた範疇の中では、等質の要素を含みながらも、これらの対立項は、別のレヴェルでは互いに排除し合わなければならない。
我々が、文化の中で秩序と考える状態は、こうした統合と排除の無数の組み合わせの上に成り立っている。しかし「排除」独特な方法が、文化の特定の要素を決定している。
我々が、「流行」と名づける現象にも、風流と呼ぶ行為の形式にも、粋と名づける性向にもこうした「排除」の原則が貫かれているのであって、ミシェル・ド・セルトーが逆説的にいうように、「歴史」は、或る意味では排除したものの総体であるのかも知れない。

秩序化とは、連続的で、無定形の知覚の流れをはっきりとした一組の全体的なものに変質させるような作業。(バウマン)
こうした知覚の文化的領域の境界を劃するものとしての「タブー」という概念。(エドマンド・リーチ、メアリー・ダグラス)
「タブー」を、リーチは断片化した連続体の中の「名づけられた」部分の承認を拒む行為であるという。
こして除外され切り捨てられた「混沌」の部分は、文化のプラクシスの記号論的働きかけによって周縁的な部分に姿を現さなければ、存在しないも同然であるといえる。
ただし、この部分は近くの周辺をさまよって、秩序化された意識に対して、幻想、或いは無意識を通して働きかける。タブー及び象徴が増殖するのは幽明境を明らかにしない部分においてである。

2009-08-12

『文化と両義性』に見る 本当のフェミニズムとは

今後参照する重要部分の抜粋。

山口昌男『文化と両義性』
第3章―2より
境界は多義的である故、そこには日常生活の中では位置を与えられないイメージがたち現れる可能性を持つ。二つの矛盾するものが同時に現れることができる。
そこでは、イメージ及び象徴が、言葉になる以前に絶えず立ち現れ、増殖し、新らしい統合をとげる。

「我々」の側において、秩序が支配的であり、この秩序の中で、すべては恒常的であり、起こりうることに如何に対応すればよいかもわかっている。
これに反して彼方の側において、一寸先は闇であり、すべてが不確定的である。
勿論、「此方」も「彼方」も、意識の内側の状態の投影に過ぎないことはいう迄もない。
「彼方」は意識の下層の或る状態の投影物である限り、若し「彼ら」が存在しなければ、「彼ら」を創出しなければならない。
ここで、働く論理は、「彼ら」は「我々」の対の一部であるというそれである。
「我ら」のアイデンティティが確認されるために、「彼ら」は必要なのであり、彼らはそういった意味で有用なのである。
キリスト教社会がゲットーを必要とした文化的前提はここにある。・・・多くの社会で、女性が潜在的にこういった内側の彼らの位置を占めている。

秩序を確認するためには、境界を設定することが必須の前提であり、境界のイメージを生き生きと、想像力に働きかけるように浮かび上がらせるためには、(中略)この空間に出没する魔性の者を作りあげるのが最も有効な近道である。この魔性の者は、人間のまともな形(=シンタックス)という形で表される「秩序」の骨格と、動物的部分(=語)を備えていることが望ましい。


女性の問題は、第一波フェミニズム的な思考では決して本当には解決できない。
それは、キャリル・チャーチルのTop Girlsでも、すでに明らかにされたことではあるが、(放送大学の「英語中級B」を参照」)
『文化と両義性』の第3章、第4章を読むと、女性の問題における解決は、キャリル・チャーチルが求めたよりももっと根本的な、人間の意識の構造にまで遡らなければならないことがわかる。

2009-08-04

試験終了

昨日、無事試験終了。

まずは、夫と子供たちに
協力してくれてホントにありがとう。
特に夫には、仕事で疲れているのに子供たちの面倒を見てくれて
心から感謝しています。

全く興味がなかったのに、あとはコレを取れば博物館(芸術系)の認証状が取れる!
というだけの理由で取った「著作権法概論」が、心配の種。

他の科目は勉強したくて取ったから、教科書を覚えてしまうくらい勉強するのも苦じゃない。
でも「著作権法概論」は、興味が持てないから教科書を読むのが本当に苦痛。
まいった。

でも、「哲学への誘い」でヘーゲルの『法の哲学』をほんのちょこっとだけかじったら
法律って、すごく面白い。
法律は、解釈し判断をする人の内側にあるのか、外側にあるのか、完全無菌な解釈って可能なのか、そんなことを考え始めたら、たまらなく楽しくなり

著作権法も、社会の変化と人間の欲が法律の文の間からニョキニョキ顔を出し、つっこみどころ満載っていう感じで、つっこみながら勉強してたら楽しく終えられました!

哲学を勉強すると、それはもうあらゆるシーンでつっこみどころが見えてきて、生活も勉強もより楽しくなります(笑)

そんなこんなで、ハードな試験週間でしたが楽しめました。
フランス語も3レベル目に進めそうなので、来期また頑張りま~す。

2009-07-06

フランス語は発音が大事

今学期、フランス語入門IとIIを取って本格的にフランス語の勉強を始めた。
英語は小さい時からちょこちょことやって、今はまあ、不自由しないレベルで使えるようになった。
だからこの年から全く新しい言語を学ぶとしたら、不必要な要素を切り捨てないと辛いだろう…と考えていた。
つまり、
自分のテーマを追求する上で、フランス語がある程度読解できると役に立つ
という理由でフランス語学習を始めたのであって、フランスに行きたいとか、フランス人とペラッペラにしゃべりたい☆なんて妄想しているわけではない。
よって、恐らく役に立たない(そして、試験にも出ない)発音の勉強はカットして、文法だけに集中することにした。

でもそれは大きな間違い。
特にフランス語の勉強は、発音してこそ快感で、しかも大きく上達できるということを
この間の勉強会で学んだ。

フランス語の発音は、英語に慣れていると若干困難に感じる部分もあるけれど
英語と違って、発音がとても規則的。
発音の規則を知っていれば、全く知らない単語でも
大部分はスペルを見て(例外はあるにしても)正しく発音することが可能。
全く意味がわからない長文でも、発音の規則さ・え身に付けば
フランス語ネイティブ並みに音読することはできる。
音読できれば、原文に触れる量を大きく増やすことができる。
顔の筋肉も鍛えられる(笑)←フランス語の母音で

そして、音読ができればリスニングもできるようになっていく。
耳から得られる情報は膨大だ。
本で学んだ文法を、直感的に使えるようになるだろう。

フランス語を学ぶなら、まず発音の規則を身に付ける。
そして音読の量をこなすこと。
これで半年もらえれば、中級程度のフランス語はマスターできる…なんてココで書いてみて
うん、実証してみよう。

2009-07-02

Twitterはじめる&ヨガのこと

読書メモ的にも、日記にも使えるし
ブログみたいに考えずに、勢いで短文書けるし
はじめてみたTwitter、かなり良い。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0907/01/news062.html


もうちょっと奥深い使い方はこれからだけど
つぶやきを継続することで生まれる何か、を体感したいな。

ヨガは自分ペースでやっているけれど、本格的に再開する時間は全くない。
なので、勉強ほど書くことがない。
でも、毎回のプラクティスに気づきは必ずある。
そして今はそれでいいと思ってる。
そんな自分ヨガにも、Twitterが効くかもね。

2009-06-15

黒土三男監督の面接授業

昨日、今日と、映画「蝉しぐれ」の黒土三男監督の面接授業「映画の楽しみ」を
千葉学習センターで受けてきました。

楽しかった。
私が今まで学んできた、本だけの映画論に、肉を与え血を通わせてもらいました。

1個前のブログ記事に
出席だけで単位をくれる面接授業なんて、どうなの??
という類のことを書いたけれど、
この授業は、出席だけとか、そうじゃないとかいうことを超える内容でした。

夫と子供たちも、お留守番ありがとう☆

2009-06-12

チャンスと、甘くない勉強と


放送大学に復帰して、約8ヶ月。
子供を持ちながら、また勉強ができることに
心から充実と感謝の毎日、といってもウソじゃない。
また勉強の機会を与えてくれた放送大学には、本当に感謝しています。

ただ、勉強が甘いのには悩んでしまう。
通信と通学、日本と海外を比べてどうこう言うのは間違っているだろうし
放送大学の社会的な意義とか、色々な状況の中でも勉強を続けていらっしゃる
尊敬する人たちのことも知りながら、あえて書くのだけれど

アメリカで通ってた、ごくごく普通の州立カレッジでは
同じだけの単位を取るのに、放送大学の10倍勉強しなきゃ無理だった。
英語のハンディを除いたとしても。

その大学の人文系で一番楽だと言われた、美術史入門の授業では
図鑑みたいに大きくて800ページ以上ある教科書の半分と
これまた細かい字で300ページある、美術批評の教科書の全てを
1学期3単位の授業で全て終える。
この授業は試験が2回だけだったけど(だからレポートなしで楽って言われたんだけど)
放送大学の卒業研究くらいの論文を、学期の終わりに普通に書かされる授業もある。

専攻の分野によって、多少状況は違うにしても
それが大学の勉強だと思ってた。

そんなこともあって、やっぱり放送大学の量は寂しいし
教科書持ち込みで、教科書のどこに答えが書いてあるかを探すようなレベルの試験だったり
出席や簡単な感想だけで単位がもらえる面接授業だったりすると
何かもう、本当に色々な意味でびっくりしてしまう。

でも自分自身の問題として捉えれば、勉強って本当は、与えられるものじゃない。
求めて新しいところまで踏み込んでいく、自分自身の問題。

そうは思いつつ、やっぱり悩んでもいた最中
放送大学の、とある会に参加させてもらえることになって
語学の面でも、哲学を学ぶという面でも、ちょっと違う厳しい勉強ができるようになった。
ありがたい。

色々あるけれど
子育て中でも大学の勉強の機会を与えてくれる放送大学があったからこそ、こんなことも書ける。
そして、放送大学には、素晴らしい先生がたくさんいらっしゃって
放送、面接問わず、感動的な授業がいくつもある。

勉強ができるって、本当に幸せなこと。
チャンスを与えてくれたことに、心から感謝しよう。

2009-06-10

放送大学への要望、ちょいと実現?!


ココでつらつらと書いた、大学への要望。
ブログに書いたからというわけでは、勿論ないのだけれど
同じような声があったのか、私が知らなかったのか、最近になって変化に気づいたので、こちらで追記。

*全ての面接授業で、大学に直接提出する授業評価ができるようにしてほしい。
→たぶん私が知らなかっただけかも知れない。
先日千葉のセンターで初めて面接授業を受けた際、授業時間内に評価表が配られて、匿名でセンターに直接出せるようになっていました。
でも他のセンターでは、今までなかったんだよね・・・千葉だけ?

*閉講科目は前学期にわかるようにしてほしい。(取り損ねないように)
これは来学期から実現!
すでに放送大学のHPで公開されている、2学期の授業科目案内(注!PDF)に、09年2学期で閉講する科目の一覧が載っています。

*美学芸術論、表象、美術史関係の授業を増やしてほしい。
↑の閉講科目一覧に、芸術関係の科目がいくつかあった(06年開講のもの)
ので、新しく開講される(であろう)授業に期待大。
是非新しい内容の芸術科目をお願いします☆☆☆

*英語以外の外国語でも、中上級レベルの科目をつくってほしい。
これは授業では実現していないのだけれど、ある方に大学内の語学勉強会に誘って頂き
ありがたいことに、非常に高いレベルの勉強ができるようになりました。
感謝感謝!

学校の役員、放送&面接授業、勉強会の予習、家事、仕事。一日がホントにあっという間。
天気はどんよりと鬱陶しいけれど、私はカラッと頑張ろ!

2009-05-18

マスクを買う&iKnowのフランス語学習

新型インフルエンザ、弱毒性とはいっても周りのためにも気をつけたいので
関東在住ですが、一応マスクを購入。
忙しいので「ぽちっとアスクル」で注文。

以前はもっと種類があったのだけど、今日注文できたのは「スズラン 立体ゾーンマスク」のみ。2箱購入しました。

花粉症で買った不織布マスク残りと合わせて、足りるといいのだけど。。。

今期は、フランス語事始めということで
フランス語入門ⅠとIIを両方取ってます。
強力な味方は、前にGMATの勉強で使ったことのある”iKnow”。
語学学習には本当に役に立つんだよね。全部無料だし!

フランス語を始めるので、久しぶりにiKnowのページに行ってみたら
インターナショナルな語学学習サイトのsmart.fmになって
自分で学習リストが作れるようになってました。

それで早速、放送大学の「フランス語入門Ⅰ」のかなりの部分を占めている
動詞活用(現在形)の学習リストを作成。
これを毎日やって、活用と例文がするする、とまではいかなくても、着実にアタマに入っています。

公開していますので、フランス語入門Ⅰを取っている方、フランス語初心者の方もぜひお使い下さい☆ smart.fmにアクセスして、「フランス語 動詞活用」で検索するとヒットします。
(iKnow&smart.fmは、何を使っても無料です。excellent!!)


↑この画像が目印☆