2009-04-22

「悲鳴をあげる身体」

「悲鳴をあげる身体」
女性の身体がどのように所有されているか、が
映画や絵画の中でどう描かれているか、に興味があったところ
偶然ある方に教えて頂いた本。

よーく見たら、放送大学の「芸術・文化・社会」で2章と3章をご担当の
鷲田清一先生が書かれた本でした。
ひとはごくわずかな「感情の浮沈」によってその存在が深く惑わされてしまうものなのであって、他人との交わり、あるいは信頼にもとづいた関係というものを失ったときに、ひとは食欲そのものをもひどく狂わされてしまう。
・・・「精神病院での食事時のもの悲しい光景は、ひごろはのろのろと動いている患者たちの恐ろしい速度の『早食い』である。また・・・食物に毒が盛られていると確信している被害妄想は、人間学的には信頼というものの喪失のすさまじい表現に他ならない」、と。
人間としての近さや親しみの感情を失った時、食もまた崩れるのである。

身体をめぐるさまざまの記事が新聞に載らない日はない。
人びとはなぜこうも身体を気にするようになったのかと、あらためて考えさせられる、いろいろな契機が渦巻いている。
が、はっきりしているのは、身体がその独自のゆるみやゆらぎ、あるいは独自のコモンセンスを失って、がちがちになっているということ、言ってみれば加減とか融通がきかなくなっているということである。
身体はいま、健康とか清潔、衛生、強壮、快感といった観念に憑かれてがちがちになっている。
パニック・ボディ。そう、身体がいまいろんなところで悲鳴をあげている。