『無題のフィルム・スティル』におけるシンディの写真のイメージは、まったく突飛な女たちではない。それくらいの社会生活についてのイメージは、だれの頭のなかにもストックされているか、さもなければいろいろな方法、雑誌、書物、ヴィデオ等々のかたちで社会自身に記憶されている。シンディはこうした記憶のファイルからイメージを取り出してくる。
人間はこうした社会的イメージの記憶に接触することで、いかにも「主体」らしく出現する。そうでないと他者になる。いいかえるとこれまで人間は、主体という言葉に意味をこめてきたが、それはもっとも平均的なイメージが「主体」らしきものと措定されていたにすぎないのではないか。このフェイクな社会にあって、主体とはそのこと以上を意味するとは思えない。シンディの写真はこんなことを語っているのである。(多木浩二 『ヌード写真』)
イメージはもはや伝達の道具ではなく、いまや社会の方がみずからをイメージとして認識しはじめている。実体的世界があるかないかはここでは問題にしなくてもいい。実体として現実を問いはじめることが疑問に付されたのである。そのような方法では、われわれの生きている現実はもはや考えることはできない。彼女の写真は、われわれの社会での現実とは、このように起源を欠いた虚構でありながら現実性を獲得したものだということを明確にしようとしたのである。…彼女が現在は、おそろしくグロテスクなカラー写真を撮っているとしても不思議ではない。優しい若い女としてフェイクを演じていたとき、すでにそのようなグロテスクな世界を漠然とかいま見ていたからである。(多木浩二 『ヌード写真』)
ひとが、特に女性が、ときには暴力的なまでに自らの身体をつくり変えようとするのはなぜなのか。その視線の先にある理想的な身体は、イデオロギーがつくりだした虚構にすぎないのに。
戦争と産業のために、身体を訓練しつくり変えてきた近代。ダイエット、しわとり、整形、脱毛、カラーコンタクト、カラーリング、矯正…いま私たちは、虚構の理想的身体に1mmでも近づこうと必死で闘っている。