2009-03-06

キャリル・チャーチル"Top Girls"のフェミニズム(1)

Roger CornishとVillet Ketelsによる批評から (Session1)
Churchill sees her life as a writer inseparable from her life as a woman.
"What politicized me," she explains, "was being discontent with my own way of life – of being a barrister's wife and just being at home with small children."
The mother of three sons, she came to feel that "women's true liberation on the domestic front must involve the education of men to share fully in the raising of children even at the expense of their own careers."

何らかの目的を持って学び、社会で表現すべきものを培ってきた女性が、夫によって生活が保証された家庭生活に入って一定の年月を過ごしたならば、同様に感じると思われる内容を、チャーチルはここで語っている。

多くの家庭において、主婦の仕事には終わりがない。
掃除や料理に手を掛け始めたらきりがない、とよく言われる。しかしそれは多分に性格の問題もある。
最も大きな要因は、多くの夫や子供たちが、家庭の仕事をしてくれる主婦がいることを大前提にして、様々なコトを計画し実行し続けるという事実である。

例えば、夫が本屋に寄る。趣味の雑誌を物色し、仕事に役に立ちそうな本を探して、会社帰りに1時間くらい本屋をうろつくことなんて、別に妻に断りを入れるほどのことではないだろう。
ここで夫は、今現在、家には家庭の仕事を行う主婦が存在して、自分は子供たちの物理的な世話や食事の調達を心配する必要がないことを、無意識の中で大前提として行動している。

ところで、もしそうでなかったら・・・?子供の迎え!保育園の後に学童に回って、駅前のスーパーで買い物して・・・冷蔵庫には何があったっけ?!明日の体操着を洗濯しなきゃ・・・
家庭にいる主婦の存在を大前提に行動している夫たちが、ある日突然この状況に放り込まれたら、間違いなくパニックだろう。

ところで、家庭の仕事をしてくれる人が(自分以外に)いないことを知っているたくさんの子持ち共働き主婦は、毎日この状況をこなし続けてる。
愚痴を言ったり、時には楽しんだり、あきらめたりしながら。


妻(母)の家庭内での仕事は、家族が主婦としての役割(専業も兼業もなく)を常時かつ無意識的に求め続けることによって、常に生まれ続け、終わりがない。

主婦の役割を全面的に求められている女性が、自分自身の創造性を開発し、真に豊かな意味で社会に貢献していくためには、education of men to share fully in the raising of children even at the expense of their own careers、更に子供を含めてひとりひとりが家庭の仕事に自覚的になり、話し合い分担することは必須だと思う。

その結果として、家族内での分担が進むかもしれないし、やはり家庭にいる妻(母)が大部分の物理的な家事を行うことになるかもしれない。子供の有無や年齢、お互いの仕事の量などによって、その形は異なって当然だろう。
しかし、主婦という役割が固定的ではないこと、無条件にその役割を求められ続けることの重みに、ひとりひとりが自覚的になることによって、成長する存在、また社会に貢献する存在として自立しつつ結ばれた、創造的な家族を築いていくことができるようになる、と考える。

妻(母)自身、自らの家庭内での立ち位置に自覚的になり、当然のこととして無意識的に要請される主婦としての役割に、自ら主導権をもって時間的、項目的にけじめをつけ、明日のお弁当やお迎え時間の心配と共に、5年先、10年先の自らの姿を確認していくことが大切だと考える。